温泉神社
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   【延喜式神名帳】湯泉神社(大月次 新嘗) 摂津国 有馬郡鎮座
          (旧地)湯泉神社【旧地】

   【現社名】温泉神社
   【住所】兵庫県神戸市北区有馬町1908
       北緯34度47分41秒,東経135度14分55秒
   【祭神】大己貴命 少彦名命 熊野久須美命 (合祀)軻遇突智命
   【例祭】10月2日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】崇神天皇7年神戸を置
       釘明天皇3年9月行幸
       同7年行幸
       大化3年10月孝徳天皇行幸
       大治3年(1128)3月22日白河法皇行幸奉幣
       安元2年(1176)3月9日後白河上皇・建春門院御幸奉幣
       永正14年(1517)閏10月6日足利義植入湯白銀奉納
       天正13年(1585)豊臣秀吉夫人北政所三所権現及び藥師堂を再建
       慶長3年(1598)9月11日社殿再建
       元禄8年(1695)6月29日火災焼失
       寛政10年(1798)8月社殿再建
       明治6年10月郷社
       同16年現在地に遷


   【関係氏族】
   【鎮座地】もと温泉寺の境内で、今の嚴島神社の地にあつたという
        明治16年現在地に造営という

   【祭祀対象】温泉
   【祭祀】平安時代は「三輪明神」と称していた
   【公式HP】 温泉神社
   【社殿】本殿桧皮葺春日造
       幣殿・拝殿・社務所・神輿庫・絵馬殿・手水舎

   【境内社】

愛宕山の東北山麓にあり。愛宕山は、往古塩原山と称していて、その麓より「塩の湯」が湧出していたという。
もと温泉寺の境内で、今の嚴島神社の地にあつたというがその地は狭隘であり不詳。
明治16年現在地に造営という。
伝説では大巳貴命と少彦名命が傷ついた鳥が有馬の温泉で水浴びをし、数日後、傷が治ったことが温泉発見の糸口になったとされており、その鳥の彫刻が拝殿入り口の上に施されている。
釘明天皇3年9月の行幸を初めとして多くの行幸や参詣があった。


由緒

みなと神戸の裏山、六甲山を越えると有馬の町になります。海抜400mの山狭に位置していますので、景色はすばらしく、春のコブシ、桜、秋の月、モミジは有名です。しかしなんといっても有馬が全国に知れわたったのは、日本最古の温泉だということによると思います。なにしろ大己貴神さまと少彦名命さまとが人々を病気から守るため、国々を旅し、薬草を捜し歩かれたときに発見されたといわれています。つまり、神代の昔のことです。
というのは、川のほちりで赤い水が岩の間から湧き出ているのを神さまたちが見つけられました。そこえ三羽の傷ついたカラスが飛んできて、水の中に降り立ち、水を浴びていました。しばらくするとカラスの傷がみるみるうちになおっていきます。
神さまたちが不思議に思って手をつけてごらんになると暖かい水でした。「きっと病気にも効くに違いない」・・・神さまたちはカラスをまねられ、さっそく、その湯を浴びられました。こうして有馬温泉が見つけ出されたいい伝えられています。これらの神さまがたを、おまつりしてあるのが湯泉神社です。
史実の上では「日本書紀」に西暦630年秋9月、舒明天皇が摂津国有間温湯に行幸された、と記録されていますから、少なくとも1350年以上もの昔から有名だったことがわかります。
舒明天皇は7年後にもう一度有馬を訪ねられ、さらに9年後には孝徳天皇もお出でになっていますが、その後は行幸もと絶え、温泉もさびれてしまいました。
この有馬温泉を再興されたのが、行基菩薩と仁西上人です。行基菩薩は今から約1260年前の神亀元年に有馬を訪れ、温泉をさらえ、一寺三院を建立、療養地にしました。また、仁西上人は約790年ほど前に、夢にあらわれた熊野権現のお告げで、山津波のために全滅していた有馬の復興を思い立ち、薬師十二神将にちなんで十二の宿坊を建てました。現在、有馬の旅館に○○坊≠ニいうの名が多いのはこのためです。
さて、もうひとり、有馬温泉の恩人として忘れられない人がいます。豊臣秀吉です。
秀吉が有馬温泉を知ったのは、信長の命で中国地方に兵を進めていたとき、戦傷病兵を送りこみ、たいへん効能があったので、すっかり有馬が好きになりました。天下をとってからもしばしば有馬通いをし、豪荘な別荘を建て、湯女にまで扶持米を与えて直参湯女≠ニ呼ばせていたといいます。
湯泉神社の境内に「亀の手洗バチ」というのがあります。これも秀吉の頃をしのぶものです。この地にも、湯泉神社の近くにある善福寺には阿弥陀堂のカマ、瑞宝寺には石の碁盤など、ゆかりの品々が残っています。
こうして有馬温泉は多少の曲折もありましたが、熱海、伊豆が東京の奥座敷でありますように、有馬は関西の奥座敷として1300年もの長い間栄えてきました。
それというのも豊富な湯量と変化に富んだ温泉の種類が魅力となっています。摂氏90度の高い温泉から摂氏40度〜60度の低温泉、また常温の鉱泉などがあり、一日3000立方mもの湯が浴用に使われています。温泉の種類も金水≠ニ呼ばれる含鉄炭酸食塩泉をはじめ、鉄分の少ない銀水%ァ明な炭酸泉、ラジウム泉があり、婦人病、リュマチ、貧血病に効き目があります。そして、最近では年間に二百萬人もの人々が有馬に訪ねてこられます。
この日本最古の有馬温泉の守り神として、いつの時代も湯泉神社は人々の崇敬を受けてまいりました。平安時代の初期、927年に撰上された「延喜式」という宮廷諸官の行事を規定開いた、いわば法律の中に、当時の全国神社が3132座登録されていますが、その中で湯泉神社492ある「大社」の一つに数えられています。
ということは、五穀豊作、天皇がおすこやかでいらっしゃるよう、また日本の国が平和であるようにと、お祈りする夏と冬の月次祭、旧暦2月4日の祈年祭、そして豊作を感謝し新米をお供えする旧暦十一月の中の新嘗祭には、神祇官からお供えが届けられていたということでこのことを見ても、いかに古くから湯泉神社が人々の厚い信仰をあつめていたかを知ることができます。
湯泉神社の現在の御社殿は寛政10年に建てられましたが、重要文化財の熊野蔓茶羅図や、たくさんの社宝が保存されています。
湯泉神社では、7月3日のみこし渡御が行なわれる夏祭、10月3日の氏子でコミュニケーションをはかる秋の大祭、それに、春、花が飛び散る頃疫病が流行するため、病気や諸々のわざわいから守ってもらうようにお祈りする、5月5日に行なわれる鎮花祭を中心に由緒ある祭典が今日まで伝えられ、奉仕されています。
特に最近では、個人の祈願である安産祈願・命名・初宮詣・七五三・入学・卒業・就職等の報告祭。成人式・結婚式・寿令の祝・厄除・災難除等の神事。あるいは、先祖祭・家内安全等の家庭家業に関する神事。また地鎮祭・起工祭・上棟祭・竣工祭・開業式等工事に関する神事、といった氏子崇敬者の御依頼も多く、湯泉神社の御神威のほどが、いやますますに人口に膾炙されるようになりました。 なかでも「玉鉾さま」「阿福さま」と呼ばれている子授けの御守りは大変な評判です。これは平安時代末期に作られた「伊呂波字類抄」という日本最古の辞書にも記載されていますが、子宝に恵まれない人々が、男形・女形それぞれの形を作り、夜陰ひそやかに神前に献じ、子授けの祈願をしていたことに瑞を発しています。
「玉鉾」の玉≠ソは、よりよいもの、美しいもの、との意味ですし、鉾≠ニは男性を表わしたものです。また「阿福」の阿≠ヘ女性の名前の上につけていう言葉ですし、福≠ニは女性そのものを表わしたものです。このように男性・女性を神前にお供えする風習が現在も連綿として湯泉神社では続いており、ご希望の方にこれを授与しています。
ところで、この有馬には山地の特性から生まれた数々のみやげ物が古来より現在にと伝えられています。
なかでも、有馬の各所に散在する竹林を背景とする、篭細工と有馬筆ちは江戸時代の湯治客に大好評を博し、その頃有馬全戸の約半分が篭職であり筆職であったといわれています。もちろん日本一の生産量を誇っていました。とりわけ秀逸なのは竹管を五彩の糸で巻き、管頭にからくりをしかけた人形筆ですが、これの由来は舒明天皇や豊大閣などの有馬の恩人にからませ、いろいろと伝説化して取沙汰されています。
それから六甲深山の味覚である山椒。山ぶき・松茸などを佃煮にした「花山椒」「越天楽」「松茸昆布」などは、その起源のほども判明しないくらい古くから、有馬の特産として愛賞されているものです。
また舒明・孝徳両帝の行宮跡である杉ケ谷に湧く水が、里人は毒水だとして近づかなかったのですが、明治6年、横浜の一商人の示唆により霊水であると証明され、この天然炭酸水の顕著な薬効を利用し製造されたのが炭酸煎餅です。明治の末に登場したこの有馬みやげは都人士に愛好喧伝されました。
正月2日の有馬の町は、ひえびえとはしていますが、まったく静かな、それでいてどこか艶っぽい町のたたずまいです。その温泉街に雅楽の音が流れ、古式豊かな行列が続き、練って行きます。赤地に白く、入初式≠ニ染め抜いたノボリを先頭に、きらびやわな神輿と連台が続き、連台には真っ黒になった行基・仁西、両上人の座像が二つありその後に湯泉神社の神主、寺のお坊さん、湯女姿と稚児姿の芸者衆、羽織はかまの旅館の主人たち、お座敷のきれいどころが従い、ゆっくりと町を進みます。
陽光に輝く金具、山の緑に美しく映える衣装、荘重な雅楽のメロディー。毎年この日に行なわれる入初式の風景ですが、このお祭に、有馬の町の温泉と信仰との結びつきが、じゅうぶんにうかがうことができると思います。
有馬温泉は信仰と、温泉の町だと申せましょう。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




湯泉神社

兵応県神戸市北区有馬町。旧村社。式内社。大己貴命・少彦名命・熊野久須美命を祀る。当社は、正式には「トウセンジンジャ」であるが、普通一般の人々には「オンセンジンジャ」と称されている。
例祭10月3日。

神社辞典



湯泉神社

港神戸の裏山、六甲山を越えると日本最古の温泉地「有馬温泉」があり、その温泉街の中心に鎮座しているのが、有馬の氏神である当社で、温泉守護神として信仰されている。
 神代の昔、ご祭神の大己貴命・少彦名命の二神が、薬草を捜し歩きし時、傷ついた3羽カラスが赤い水を浴び傷を治療しているのを見て、有馬温泉を発見したと伝えられている。
 当社は、子宝・子授けの神としても有名で、子宝に恵まれない人々は、有馬の湯に浴した後、当社で祈願すれば子宝に恵まれている。なかでも「玉鉾さま」と呼ばれている子授け御守は、全国各地より求められている。

兵庫県神社庁



湯泉神社

湯泉神社 大月次新嘗
湯泉は由と訓べし○祭神湯山主(亦大國主神とも云り)○湯山町に在す、今温泉寺境内鎮守とす、三輪明神と称す、和名鈔、(郷名部)大神とあるは、今の。山荘三輪村なるべし、此村にも三輪社あり、○日本紀神代巻上、(霊劔出現段)一書曰、素盞鳴尊自天而降到於出雲簸之川上、則見稲田宮主簀挾之八箇耳女子号稻田媛、乃於奇御戸為起而生見、又云清之湯山主三名狭漏彦八島野、此神五世孫、即大國主神、○親長卿記、湯山明神三輪明神也、〇以呂波字類抄に、温泉三和社、摂津國有馬郡坐、旧記云、大神、湯泉、鹿舌、三像大明神者、是一躰分身也、故名号三和社、崇神天皇御宇之時七年始被定置神戸、載天慶8年交替帳、 夫大明神為鎮護國家、為利益衆生云々、古老云、此湯明神者云々、温泉底有石佛云々、承徳年中雷雨洪水以後不奉見尊容云々、

神社覈録



郷社 湯泉神社

祭神 少彦名命 大己貴命 熊野久須美命
当社は式内に坐ます、勧請年月詳ならすといへども、欽明天皇3年秋9月行幸あらせられ、湯泉守護神と宸翰の額を御下賜あり、孝徳天皇大化3年冬10月行幸あらせられ、神鏡御奉納ありたり、堀河天皇承徳2年、山嶽崩壊谷を埋め、温泉の出つる所を失はしめ、社殿亦漂流せりと、後九十有五年を経、後島羽天皇建久元年春、社殿を再建し熊野久須美命を合祀す、以来朝廷の御崇敬公卿侯伯の信仰甚厚し、(〇以上明細帳)明治6年郷社に列す、同15年10月25日、字有馬の地より、現今の地に遷座す。
社殿は本殿、幣殿、拝殿、神饌所、神庫、絵馬所、手水舎、及社務所神職住宅を具備し、境内坪数525坪(民有地第二種)あり、35年更に590坪(民有地第二種)を加ふ。

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