公智神社
くちじんじゃ 所在地ボタン 社名ボタン















   【延喜式神名帳】公智神社 鍬靫 摂津国 有馬郡鎮座
          (旧地)公智神社【旧地】

   【現社名】公智神社
   【住所】兵庫県西宮市山口町下山口201
       北緯34度49分56秒,東経135度14分12秒
   【祭神】久久能智神 (配祀)健速須佐之男命 奇稻田姫命
   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】明治6年(1873)8月村社
       明治12年6月5日郷社
       昭和4年4月2日県社

   【関係氏族】久々智氏
   【鎮座地】有馬郡山口村下山口字公智山にあつた
        承徳元年(1097)の大洪水の後現地へ遷という

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「牛頭天王」と称していた
   【公式HP】 公智神社
   【社殿】本殿桧皮葺流造
       幣殿・拝殿・社務所・神輿殿

   【境内社】八幡神社・稻荷坤社・皇大神社・恵比須神社・天津神社・金刀比羅神社・塩津神社

阪神総合卸商業団地の北西に鎮座する。 孝元天皇の皇子大彦命の後裔久々智民族が山口荘内の最も適当な丘を選び氏神として奉祀したのが始まりとされている。その後大化三年(647)冬、孝徳天皇が有馬温泉に行幸せられた際、御滞在の行宮(ゆきみや)造営の御用材を当神社地よりお採りになり、その良好なことを喜ばれ「功地山」(功ある山の意)の山名を賜わり、当社を厚く崇敬祈願された。
以前は有馬郡山口村下山口字公智山にあつたが、堀河天皇の御宇、承徳元年の大洪水の後現地へ遷という。
貞観年中、建速須佐之男命、奇稻田姫の二神を配祀してから、いつしか牛頭天皇又は天王宮と称するようになつた。


由緒

当神社は延喜式内社にして祭神は木の祖神「久久能智神」なり、創立年月日詳ならず人皇第八代孝元天皇の皇子大彦命の後裔久々智民族が山口荘内の最も適当なる丘上字向山(功地山又ハ天上山ト云フ)を選み奉祀し崇敬せしものなりと後ち孝徳天皇大化三年冬十月左右大臣郡郷大夫百官を従はせられ有馬温湯へ行幸し給ひし際行宮御造営の御用材を当神社地より伐採し給ひ其の用材の御良好なりしをみそなわさせ給ふや勅して「功地山」と山名を下し賜われたり時に天皇三ヵ月の久しき間此の附近に車駕を駐め給ひ厚く神社を御崇敬せられ給はれし事は延喜式神名帳、神名帳孝証(度会延経者)、神名帳孝証(伴信友著)、古事類苑、大日本史、日本地理資料、神祇志料、式社孝証(桑原弘雄著)、摂陽群談、神社確録、摂津志、摂津名所図会、明治神社誌料、特選神名帳等の国史に明らかにして其行宮址は現神社馬場先なる字奉奠堂(ホウテンドウ)の地と称伝せり又貞観年中に「健速須佐之男命」「奇稲田姫命」の二神を配祀せし事は社記社伝に明らかなりと雖も其年月不詳爾来祇園牛頭天王又は天王宮と称するに至れり然るに後当神社は現今の社地に移遷し奉れり移遷せし年代は記録の確証なければ正確に証すること能はずと雖も蓋し彼の掘河院の御宇承徳元年の大洪水にて有馬温泉の潰泉せし頃なるべく社記社傳に徴するに霊夢ありて現今の地へ移遷すとあり其後応仁、文亀の両度の兵乱の際社殿其他の建築物諸記録宝物等悉く烏有に帰せり後大永年間漸く社殿を再建せりと中世以降摂津源氏が河辺郡多田に本拠を占め有馬郡の各荘は多く其配下に属し山口荘も其一族山口五郎左衛門の支配となり荘内東方丸山に要害の城を構へ三千余石の地を領し当神社に常に崇敬祈願せし所なりしが山口氏滅亡後徳川末世に至る迄田安公又は天領に分属したり領主遠隔の為め寄進物等の著しきもの伝はらず只山口氏及其子孫より寄付する神楽殿一棟随神一対手水鉢一個現存す
上記の通り当神社は延喜式内の神社たるのみならず特に孝徳天皇深く御崇敬あらせ給ひし由緒ある神社たれば氏子の崇敬心はもとより崇敬者日々増加し現今千数百戸を数へり明治6年8月村社に加列せられ同12年6月郷社に加列せられ同45年3月27日神饌幣帛料供進神社に指定せられ神社所有の田畑山林時価九万余円其他基本財産として8700余円額面債券を有し昭和4年4月2日付県社に加列せらる
昭和49年10月拝殿・本殿・社務所等修改築される

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




公智神社

当社は延喜式内社にして御祭神は木の祖神「久久能智神」です。創立年月日は不詳ながら、孝元天皇の皇子大彦命の後裔久々智民族が山口荘内の最も適当な丘を選び氏神として奉祀したのが始まりとされています。その後大化三年(西暦六四七年)冬、孝徳天皇が有馬温泉に行幸せられた際、御滞在の行宮(ゆきみや)造営の御用材を当神社地よりお採りになり、その良好なことを喜ばれ「功地山」(功ある山の意)の山名を賜わり、当社を厚く崇敬祈願されました。又貞観年中に「健速須佐之男命」「奇稲田姫命」の二神を配祀して以来、祇園牛頭天王又は天王宮と称されました。その後現今の社地に遷座されますが、社伝によると「堀河天皇の御代、承徳元年の大洪水によって有馬温泉が潰泉した頃、霊夢ありて移遷す」とあります。中世以降、山口荘を支配した山口五郎左衛門は当社を深く崇敬祈願し、その子孫が寄進した手水鉢が現存します。昭和四年四月二日、県社に加列。現在の本殿は文政年間に再建、拝殿・覆殿・社務所は昭和四十九年に改築されました。旧神輿殿は室町時代の建立に当たり、西宮市の文化財に指定されています。また、境内には木の化石「珪化木(けいかぼく)」が多数配置されています。西宮市北部、山口地区の鎮守の神として今も地元の人に崇敬されています。

HP



神輿殿

西宮市指定重要有形文化財
(建造物)公智神社神輿殿   昭和19年3月20日指定
この神輿殿は桁行4.2m、梁間4.2mで、入母屋造茅葺きである。
内部に仏壇の痕跡があるので、かっては仏殿であったらしい。
古記録に釈迦堂、観音堂とある二堂のうちいずれかであろう。
この建物は、正面と両側面に縁をめぐらす。柱は大面取り方柱で上に身肘木を備え、正面間を蔀戸、西側面前方を片引き戸構えとし、その他は柱間を横板張りとしている。
全体として簡素な建物である。
建築年代はあきらかではないが、柱のほか、身肘木、丸桁、隅木なども大面取りで、その手法は古調を帯びており(柱の全体幅9.4に対し面の見付幅1の割合)、室町時代中期の建立になるものと思われる。
蔀戸は後補であり、天井や軒廻りも近年相当大きい修理を受けているが、その他はほとんど当初の材を遺存している。
小規模なものであるが、室町時代の作として注目されるところである。
なお昭和59年に屋根の葺き替え工事が行われた際、残っていた屋根部材から判断して以前は方形造であったことが判明した。
西宮市教育委員会

社頭掲示板



公智神社

創立年月日は不詳ながら、孝元天皇の皇子大彦命の後裔久々智民族が山口荘内の最も適当な丘を選び氏神として木の祖神である久久能智神を奉祀したのが始まり。
 その後大化3年(647)冬、孝徳天皇が有馬温泉に行幸せられた際、御滞在の行宮造営の御用材を当神社地よりお採りになり、その良好なことを喜ばれ「功地山」の山名を賜わり、当社を厚く崇敬祈願された。
 貞観年中に「健速須佐之男命」「奇稲田姫命」の二神を配祀して以来、祇園牛頭天王又は天王宮と称された。
 その後現今の社地に遷座されるが、社伝によると「堀河天皇の御代、承徳元年の大洪水によって有馬温泉が潰泉した頃、霊夢ありて移遷す」とある。
 中世以降、山口荘を支配した山口五郎左衛門は当社を深く崇敬祈願し、その子孫が寄進した手水鉢が現存。
 昭和4年(1929)、県社に加列。
 現在の本殿は文政年間(1818〜1829)に再建、拝殿・覆殿・社務所は昭和49年に改築。
 旧神輿殿は室町時代の建立にて、西宮市の文化財に指定。

兵庫県神社庁



公智神社

公智は久知と訓べし〇祭神詳ならず○山口荘山口村上方功地山に在す、今天王と称す、○摂津國風土記曰、(釈日本紀所引用)有馬郡、久牟知川、古因山為名、山本名功地山、昔難波長樂豊前宮御宇天皇世、為車駕幸湯泉、作行宮於湯泉之時、探材木於久牟知山、其材木美麗、於是勅云此山有功之山、同號功地山、俗人彌誤曰久牟知山、

神社覈録



郷社 公智神社

祭神 久久能智命 奇稻田姫命 建速須佐之男尊
創立年月詳ならす、但、大永年間再建の由明細帳に見えたり、延喜の制小社に列せられ、祈年賽鍬靭各一口を加へ奉る、古来山口、中野、名来等の生土神たり、(摂津名所巡覧図会)明治6年8月村社に列し、同12年郷社に昇格す、
社殿は本殿、拝殿、長床、神輿殿(二)及水屋を具備し、境内地は415坪(官有地第一種)あり、37年中内務省指令第272号を以て、更に上地林反別三反五畝十四歩を境内に編入せらる。
神名帳考証云く「公智神社、木神久々智命 釈日本紀、摂津風土記云、有馬郡功地山、難波長楽豊前宮御宇、探材木於久牟知山、其材木美麗於是勅云此山有功之山、因号功地山、古事記云、木神名久々智神、大殿祭祝詞云、屋船久々遅命、(是木霊他)」
神社覈録云く、「祭神詳ならず○山ロ荘山ロ村上方功地山に在す、今天王と称す、云々」

明治神社誌料



摂津国INDEXへ        TOPページへ



順悠社