有間神社
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   【延喜式神名帳】有間神社 摂津国 有馬郡鎮座

   【現社名】有間神社
   【住所】兵庫県神戸市北区有野町有野1582
       北緯34度48分51秒,東経135度13分8秒
   【祭神】天御中主神 大己貴神 少彦名命 事代主神
   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】舒明天皇3年秋9月行幸
       孝徳天皇3年10月行幸
       仁壽元年(851)正六位上
       同2年4月奉幣
       齊衡元年(854)12月奉幣
       貞観元年(859)2月社殿修理
       同年卯月班幣、火鎭祭
       同11年5月海賊・風水害・地震などの災害を防除祈祷
       同13年師走天下大疫で修理班幣
       寛平5年(893)霜月位一階を贈
       安和元年(969)天御中主神を配祀
       天正年間兵火に罹る
       元和8年(1622)火災で焼失
       寛政元年(1789)火災で焼失
       嘉永2年(1849)5月黒木の鳥居一基が下賜
       明治5年11月郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】往昔、山口荘山口村に鎭座
        霊亀年間に現在の地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「牛頭天王」と称していた
   【公式HP】 有馬神社
   【社殿】本殿桧皮葺流造
       拝殿・幣殿・神饌所・社務所

   【境内社】左別社・久戸神社・右別社・愛宕神社、天満神社
       稻荷神社・八幡神社・窪森神社・猿田彦神社・黒尾主神社


県道15号線に面した山裾の神社。
本社は有馬郡の一の宮、総産土神と云われている。
往昔、山口荘山口村に鎭座していたが、霊亀年間に現在の地に遷座された云う。
中世、熊野三所権現と仰がれ、牛頭天王とも称された。
明治維新前までは山王山神宮寺という別当寺があつたが、今は廃されて無い。


由緒

当社は往古山口庄名来村(現在西宮市山口町名来)で創建され、舒明天皇、孝徳天皇が有馬温泉行幸の砌、再三にわたって参拝される等、皇室とはゆかりの深い式内社であります。霊亀年間(西暦715年)に有馬川の洪水で流失し、御神託によって現在地に遷座された。古くは摂津国有馬郡一の宮有間総社と称され、有馬郡十六ケ町村の総氏神としてあがめられた由緒深い神社であります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




有馬神社

祭神 天之御中主之大神
   大巳貴之大神(大国主之命)
   少名彦之大神
   事代主之大神
由緒
本社は往昔より摂津国有馬郡一宮と云われ延喜式内官幣社として神祇官の御差遣を賜り、舒明、孝徳両天皇の御幸を仰ぎ八十三束の圭田を賜る。
以前は山口荘天王谷(現西宮市山口町名来)に鎮座されていましたが霊亀年間現在地に遷座され天正年間羽柴秀吉の三木城攻略の時、又元和8年と寛政元年の3度炎焼し寛政8年再建されたのが現在の本殿であります。
拝殿前「有馬社」の石標は九代将軍徳川家定公が奉献され又孝明天皇御即位の大嘗会の宮御用の黒木の鳥居の御下賜をうけ現在石段上にあります。

社頭掲示板



有間神社

有間神社は往古山口庄名来村(現在の西宮市山口町名来)で創建されましたが、年代は不詳です。しかし、舒明天皇が有馬温泉に行幸された際(631年)に参拝された記録があることから、少なくともこの時期には鎮座されていたと思われます。また、当社は延長5年(927年)に撰上された延喜式神名帳に社名が記載される(式内社)など歴史ある神社です。
霊亀元年(715)年には、御神託により西尾村(現在の神戸市北区有野町有野字西尾)に遷座し、現在に至るまで、氏神様として人々の信仰厚く崇敬されてきました。当社は又、いつごろからか別名を「山王さん」と呼ばれるようになり、「山王」が「産の緒」に通じるということから、「安産の神社」として崇敬されてきました。妊婦が神前の「子安石」と呼ばれる石に安産を祈願し、産後に神前を流れる川で母子の身を清めたとの記録も残っております。さらに、生まれた子供が無事に成長することを神社で祈願したとも伝わっており、「子供守護の神社」としても崇敬されてきました。
当社は創建時、大己貴大神・少彦名大神の二柱の神様をお祀りしておりましたが、安和元年(968年)、本殿に天御中主大神を配祀し、三柱の神様をお祀りするようになりました。また、昭和10年(1935年)には、島根県美保ヶ関の美保神社より事代主大神の御分霊を勧請し、四柱の神様をお祀りするようになりました。事代主大神は、えびす様とも呼ばれ、1月には初戎を執り行っております。

公式HP



有馬神社

有馬神社は、天御中主大神・大巳貴大神・少彦名大神・事代主大神を祀り、『延喜式』「神名帳」に記された古社である。 その由緒はといえば、むかし摂津国山口庄名来村(現在の西宮市山口町名来)で創建され、舒明・孝徳両天皇が有馬に行幸されたとき、 再三にわたって参拝され、八十三束の圭田を賜るなど皇室との縁が深かった。霊亀年間(715ごろ)に有馬川が氾濫して境内地が流したため、御神託により現在地に遷座された。古くは摂津国有馬郡一宮有馬惣社と称され、旧有馬郡十六ヶ村の総氏神として崇敬を集めた。
天正年間(1570年代)、羽柴秀吉が三木城別所氏を攻めたとき、当時の宮司武田光綱が別所氏と姻戚であったため兵火に罹った。 その後、元和八年(1622)および寛政六年(1794)にも炎焼し、寛政八年に再建されたのが現在の本殿である。 有馬神社の境内には、かつて山王神宮寺があり、山王権現としては有馬屈指の名刹であった。しかし、明治の神仏分離令により廃寺となった。
拝殿前の有馬社の社号石は、元文元年(1736)、当時寺社奉行であった大岡越前守の命により、当時摂津国の由緒ある式内社の中で 神社名が謝り伝えられていた二十社に建てられたものの一つという。また、石段を登りつめたところに建っている黒木の鳥居は、孝明天皇の 御即位のときの大嘗祭に使用されたものを宮中から払い下げを受けたものが朽ちたため、人造のものに再建したものである。 有馬神社の社叢は28000平方メートルあり、そのうちの約7000uには椎の木が群生し、自然にリサイクルしている様子が珍しく 貴重なものとして平成11年に神戸市指定天然記念物に指定されている。

社頭掲示板



有間神社

当社は延喜式内社で、摂津国有馬郡の一の宮といわれ、旧有馬郡の総産土神として有馬総社とも称された。
 当初祭神は大己貴大神・少彦名大神の二柱であったが、安和元年(968)に天御中主大神を合祀し、さらに昭和8年には、島根県美保関の美保神社から事代主大神の御分霊を勧請して四柱とる。
 当社は、もともと隣町の有馬郡山口村名来(現・西宮市山口町名来)の山王谷に鎮座するが、霊亀年間(715〜)六甲山の大出水で有馬川が氾濫し、下流の山口村一帯が砂礫と化した為に、御神託により現在地に遷座。山口村山王谷に鎮座していた頃、舒明・孝徳の両天皇も参拝され、有間王子ゆかりの神社とも伝えられている。山王宮とも称した時代もあり、江戸時代には三田藩十代藩主九鬼隆国の祈願所として、宮田「2反5畝25歩」を寄進している。
 御旅所には「子安石」があって、昔から安産の神として信仰される。
 境内の椎の木の群生は、兵庫県から「環境繚地保全地域」に指定され、また平成11年2月に、社叢の内約7,000平方メートルが神戸市より「天然記念物」に指定。

兵庫県神社庁



有間神社

有間は郡名に同じ〇祭神詳ならず○中村之内西尾に在す、今山王と称す、○日本惣國風土記残欠云、有馬神社、圭田八十三束三毛田、所祭大己貴并少彦名神也、

神社覈録



郷社 有間神社

祭神 大己貴大神 天御中主大神 少彦名大神
本社は旧と山王とも称す、創立年月及由緒詳ならず、但、延喜の制小社に列せられ、古来近隣七村の生土神たり、社伝に拠るに、本社は元と有馬郡有野庄中邑の属邑西尾村の上下谷、即ち今の有野村の中央より稍南方に在り、延喜式内有馬郡の一の宮と称し、総産神にして郡内の総社なり、祭神大己貴、少彦名の二柱なりしが、安和元年天之御中主の神を配祀す、而して同郡唐櫃村及船坂二郎塩田、生野の各村は本社の氏子なりしが、唐櫃、船坂の二村は本社の御分霊を勧請す、塩田生野村は八幡神社を勧請して分離す、現今は有野村のみ氏子なり、天正年間織田信長、羽柴秀吉をして播磨国三木の城主別所長治を攻めしむるとき、其沿道なるを以て、赤松氏の家臣小野三郎西片城砦を攻略せしとき、兵燹に罹り、社殿及宝庫等鳥有に帰す。
抑本社は往昔当社を距ること、凡一里二十丁の地に、山口村の山王谷と称する地に鎮座し給へり、霊亀年間御神託に依り今の地に遷座し給へり、今尚ほ旧地山王谷と称する地より、椙の埋木及び古陶器を発掘するものあり、村民之を神代の古器物として珍藏せり、社殿建築のことある時は、中村の属邑東尾路村に假殿を設け、鎮座し給へり、故に今尚旧假殿を改築し須佐男命を奉祀せり、本社の御神徳は安産の御霊験著しく、本社馬場先に児安の森と称する森あり、又同地に子安石、子安草といふものありて、妊婦其草を探り服するときは如何なる難産と雖も分娩し、児母共に健全なりと称す、摂津志及摂津名所図会又は神祇志料等にも安産の記事あり、故に近郷里民の崇敬尤も篤し、尚往時朝廷及武家の崇敬篤かりし一班を社伝に拠りて按すれば、舒明天皇及孝徳天皇本社へ御幸ありし由を伝へたり、文徳天皇仁壽元年正月正六位に進められ、同2年4月奉幣あり、文徳天皇斉衡元年12月賀瑞の典を以て奉幣あり、清和天皇貞観元年2月癸丑年を期して社領を修理せしめられ、同5年4月戊子応天門の火災に依り、班幣鎮火祭あり、同11年12月庚子海賊風水地震後害を藤除祈祷の為め班幣あり、三日を期し金剛般若経を転読せしめらる、同13年12月乙夘天下大疫に付、17年8月己己火災に依り各班幣あり、寛平5年癸丑11月甲辰位一階を進めらる、降つて元文元年丙辰12月14日延喜式内神社調査の際、徳川九代將軍家重より、有馬社の三大字を勒せし標石を下付せらる、有馬郡に於て当社のみ此事あり、武州岡部の神主安部摂津守の祈願所として、毎年御食米として三石宛供納せらる、右は明治4年迄継続せられしも今は廃止す、文化9年4月御食田として二反五畝二十八歩献納せらる、嘉永2年孝明天皇御即位の大嘗会御執行の節黒木の御鳥居下賜せらる、尚ほ同天皇御即位の節御用の御扇下賜せらる、右何れも下賜状あり。
尚当社に於ては巴の紋を用ふ、其由来を尋ぬるに、筑後國久留米の旧藩主有馬玄蕃頭豊氏は本郡塩田村山崎の纂に拠つて、三百七十石を領せし、豪士なりしが、荒木摂津守村重の為めに攻陥せられ、落魄して有馬に移寓せしとき、豊臣秀吉公有馬温泉に入洛の節知られて国郡三田の領主となる、後ち豊公征韓の役に從ひて戦功めり、今の筑後に栄転す、豊氏は本姓赤松なれども、有馬郡を領し、本社の祭神を崇信し、未だ幾何ならすして豊公に擢用せられしは、全く本社の神助なりとして、姓を有馬と改め、本社へ自己の巴の紋章三個を奉納し、以て神恩に報賽せるに基くと云ふ、明治6年郷社に列す。 社殿は本殿、長床、及神輿庫等を備へ、境内地は777坪(官有地第一種)あり、同37年中内務省指命甲第191號を以て、更に上地林三反二十八歩を境内に編入せらる、有間の間、古来馬に作りしを、34年現今の字に改めたり、傳へ云ふ、村民平日穢れを忌む、故に婦人産期に当るや、出でゝ水涯の小舎に就く、而も未だ嘗て産死者あらずと。
賽物は神祇官及神主祝部國主大小名の和歌短冊及式紙等百六十余種を蔵すと云ふ。

明治神社誌料



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