西宮神社の本殿向かって左。境内の隅にある。 西宮神社の前身が大国主西神社であったとする説もある。西宮神社の祭神に大国主命があり、古くに合祀されたのではないかという。 現在の大国主西神社の敷地は、もと阿彌陀堂のあつた場所で、古くは本地阿彌陀堂とも称して三間四面の建物があつたが、享保の頃取り払の議が起り、享和2年(1802)5月13日に取りこわされた。一方、表大門際にあつたもと不動堂が享保20年(1735)に大己貴神、少彦名神を祀る社に変更したのを、文化元年(1804)11月に便宜上上記の阿彌陀堂のあつた場所に移転した。その後ただ大己貴社とのみ称してきて西宮神社の末社とした。もとより式内社ではないのを明治7年この社を延喜式内なる大国主西神社であるとして、時の所管庁である教部省に建言した者があり、西宮神社からは上の次第を上申したけれど、その結果所在の知られるまで式社と定めるよう達せられたのである。 これより先、明治3年に諸国の神社取調があり、西宮神社は『摂津志』等により古名を再興して大国主西神社と改め、明治7年6月に社格を県社に定められたが、同年8月にその社格を取り消されて、又同年11月にこの大国主西神社(元不動堂)と共に更に県社に列せられたのである。西宮神社の再興として名を改めた大国主西神社の名は否定され、前述の如く所在の判明するまで元不動堂であつたこの社に大国主西神社の名を冠して置くことになり、現在に至つている。 |
廣田西宮分離、及び大国主西神社の件 明治5年3月、官幣大社廣田神社と分離した戎社には、代々廣田西宮両社の神主を勤めてきた吉井家の傍流吉井西家から、「西宮神社」祠掌として吉井良幹が任ぜられ、6年6月には西宮戎社を大国主西神社と改称し、祠掌に吉井良秀を補任している。 明治7年4月、この大国主西神社(西宮戎社)の村社から県社への昇格を願い出、大国主西神社として県社に列せられた(明治7年6月30日)。 ところが、同年8月28日付を以て先の大国主西神社の社格を取り消し、西宮神社ともども廣田神社の摂社と定める旨、教部省から達しがある。この時点で教部省は、「西宮戎神社」と「大国主西神社」を別の神社と見ており、「西宮戎神社」を「大国主西神社」と改称し県社への昇格を願い出た西宮神社側との認識の違いが混乱の一因となっている。 氏子総代が異議申立てをした処、11月7日に摂社の儀はそのまま、「西宮神社」「大国主西神社」共に県社と定めるとの指令があった。ここに云う「大国主西神社」とは、延喜式神名帳・攝津国菟原郡にある大國主西神社とも言われているが、元は境内の阿彌陀堂という仏堂で、享保20年(1735)、大己貴命 少彦名命二柱を勧請し神社にしたとものとされている。 氏子総代等納得せず、さらに嘆願した処、県及び教部省は苦心、考証の結果、明治8年4月28日付で、「今更廣田神社 摂社の名称の取消しは出来ない、大国主西神社の由来に付いては確定出来ないので両社とも県社のままとする。但し、西宮神社は県社として別に祠官を定め社務・社入も別途とするも差し支えなし」と、一応の決着を見た。 大東亜戦終戦後は当然の如く、廣田西宮両神社は別々の宗教法人となり、大国主西神社は社格を持たぬ神社として、西宮神社の境内神社となっている。 西宮神社公式HP http://nishinomiya-ebisu.com/index.html |
西宮神社 福の神『えびす様』の総本社として全国から崇敬を集めている西宮神社は、銘酒の産地として名高い灘五郷の一つ西宮市に鎮座し、その地名の由来ともなっている。ご創建の年代は明らかではないが、平安時代には、すでに高倉上皇の幣帛を賜った記録が残されている。室町時代になると七福神信仰により、えびす様が福の神の代表となり、当社がその信仰の本拠として人形操りや謡曲、狂言などの芸能を通して、全国に広まっていった。 徳川幕府からはご神像札の版権を得て、独占的に全国に配布、社勢が盛大となっていくと共に上方の商業経済の発展に伴い福の神えびす様が商売繁盛の神として信仰されるようになっていった。 家綱公によりご造営された本殿は春日造を三棟連結した本邦唯一の『三連春日造(西宮造)』として国宝に指定されていたが、昭和20年(1945)の戦災で焼失、昭和36年(1961)に元のまま復元された。 室町時代に建立された全長247mの『大練塀』は日本三大練塀の一つに数えられ、桃山時代に建立された豊臣秀頼公寄進の『表大門』と共に国の重要文化財に指定されている。 兵庫県神社庁 |
大國主西神社 鍬靱 大國主西は於保久爾奴志乃邇志と訓べし○祭神蛭児尊○今武庫郡戸田荘西宮村に在す、今西宮と称す、 神社覈録 |
縣社 西宮神社 祭神 西宮大神 天照皇大神 大國主神 須佐男之命 創立年代詳ならす、延喜の制、式内小社に列せらる、即ち延喜式に、播磨国菟原郡小大国主西神社(鍬靫)と見ゆる神社是なり、本社は廣田社の西に鎮座するが故に西宮と称せりと(神名帳考証)又土俗夷宮と称し、中世以降福徳の神として一般の崇敬盛なり、殊に商家の尊崇厚し、慶長4年、豊臣秀頼社殿を再興し、寛文3年、徳川家綱再建す、明治7年11月縣社に列す、和漢三才播磨名所巡覧絵図に云く、正月十日、村民自九日朝、至夜開戸不出入、謂之居寵、亦一異也、」と 社殿は本殿、拝殿、神饌所、宝蔵、絵馬所、権殿、神輿舎、神馬含、神饌所、及詰所を備へ、境内地は9114坪(官有地第一種)あり、本社は西ノ宮蛭子とて其名高く、賽者常に絶えずして、二月初子の如きは、京坂其他の地より群集参詣雑踏踏を極む。 明治神社誌料 |