綱敷天満神社
つなしきてんまんじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】河内国魂神社 鍬靫 摂津国 莵原郡鎮座

   【現社名】綱敷天満神社
   【住所】兵庫県神戸市東灘区御影1丁目22-25
       北緯34度43分12秒,東経135度14分52秒
   【祭神】菅原道眞 (配祀)別雷大神 蒼稻魂大神
   【例祭】9月25日 例祭
   【社格】
   【由緒】

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 綱敷天満神社
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】天神社・松尾社・草壁稲荷社・白龍社・栄倉稲荷社

当社の背後に広がる丘陵地帯を御影山といい、こちらが本当の河内国魂神社ではないかとの説もある。
創建は不詳だが、当初は天神山(現・御影山手)にある祭壇地に祀られており、中世に現在の鎮座地(旧地名・菟原郡覚美郷石屋村八色岡)に遷された。
当社は「茨城国造となられた天道根命が祝詞して、竜神岡の天神山に祖神・天穂日命と別雷神を斎き祀られたのに始まり、天津彦根命に伝えられ子孫代々鎮祭す」と伝えられている。
用明帝の御世、四天王寺建立の祭に石を切り出されたところ見事な鉱石が出たので聖徳太子が自ら倉稲御魂と刻み合祀されたと伝。
菅原道真公が大宰府左遷の15年前、公が42歳の仁和2年(886)に讃岐守として任国に下向する際に参拝。


牛と天神さま

全国各地の天神さまにお参りになつても必ずと言つて、良い程境内に牛の像をお見受けになりますが、天神さまと言えば梅と牛、これは切つても切れない関係にあります。
 それは菅原道真公(菅公)の生れ年が承知12年(845)6月25日の丑年の丑の日で15才の元服式の日が貞観元年(859)2月11日の丑の日であつたと言われます。また菅公が九州に左遷のみぎり、京都を旅立つ時に、藤原時平が笠原宿禰に命じ菅公暗殺をたくらんだ時に菅公が以前、北山で供養した白牛が飛び来たつて、宿禰を角殺して危難を救つたと言われております。そして九州大宰府の配所・榎寺での薨去の日もまた延喜3年(903)2月25日、この年も丑年にあたるのであります。
「菅原聖廟伝」には、菅公の御遺言として、「御かばねをば人に引かせず、牛の行く所にとどめよ。」とありますが、この地が大宰府天満宮の発祥の地であり、ここにも菅公と牛との目に見えない御神縁を感じるのであります。
天満神社境内の牛を「撫で牛」と言いますのは、病気で悪い所痛む所があると全快を祈つて牛のその箇所を撫でて祈願するからであります。また、子供にクサ(瘡)ができると、牛に祈るのは、牛はクサを食べてくれると言うことでありましよう。
こうして「牛」は天満宮信仰にとつては無くてはならないものとなり、「神のみつかはしめ」として精神的なつながりをもつております。

社頭掲示板



学問の神様、菅原道真公を祀る須磨の天神様

道真公は九州太宰府に左遷された際、須磨の浦で波が高くなり航海を中断されました。その時、漁師達が網の大綱で円座を作り、お休みになられた事にちなんで創建されたのが綱敷天満宮です。
天神様について
とおりゃんせ、とおりゃんせ ここは、どこのほそみちじゃ 天神様のほそみちじゃ ちょっと、とおしてくだしゃんせ・・
学問の神様として知られ、各地に鎮座する天神さまですが、全国的に祀られるようになった菅原道真公の生い立ちを皆さんご存じでしょうか?
道真公は承和12年6月25日に京都でお生まれになり、小さい時の名前は阿呼(あこ)と申しました。道真公の祖先は相撲で有名な野見宿禰(のみのすくね)という人でした、野見宿禰から14代目の人を古人(ふるひと)といい、古人は光仁天皇様にお願いして菅原という姓を名乗ることのお許しを得ました。古人はよく学問ができましたので、大学頭(だいがくのかみ)という位につき、朝廷で色々の講義を致しました。それ以来、菅原家は学問の家柄として栄え、代々有名な大学者が出ました。
五歳になった阿呼は、お供のじいやと紅梅殿のお庭先で遊んでいました。丁度紅梅が美しく咲いていました、それを見た阿呼は短冊に『美しや紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある』と5歳でありながら、立派な歌を作られたのです。
道真公はやがて33歳で文章博士となり、おじいさんやお父さんの様に、大学で講義する身分になりましたが、間もなくお父さんも亡くなられ、菅原家の重大な責任は道真公一人の肩にかかってきました。そしてその立身出世を心快く思わない人、ねたましく思う人が多くなってきます。
仁和元年、道真公は突然、讃岐守(現在の香川県)に任ぜられ、都を離れることを命ぜられます。京都を離れて地方へ下ることは、学者の道真公にとって決して良い事ではありませんでしたが、道真公は『政治の事は始めてだが、力いっぱいやろう』と言って村人を親切に教え導きました。飢饉の時には米蔵を開いて救いましたので、村人は心から道真公をお慕いしました。その中、道真公の良い政治の評判が京都へも伝わり、京都へ呼び戻される事になったのです。
京都に戻ってからも立派な仕事をし、遂に醍醐天皇様から右大臣に任ぜられました。これは、当時左大臣であった藤原氏が余りにも我侭勝手な行いをするので、お若い醍醐天皇様のためを思い、父上の宇多上皇様が特に道真公に命じられたのでした。そして、藤原氏の力を抑えようとされました。このことが、藤原氏一門の怒りを招く事となります。藤原氏は何とかして、道真公を右大臣の位から落とそうと藤原氏一門の人々と相談し、道真公が天皇様に対して良くない企みをしているという様なでたらめを天皇様に申し上げたのです。天皇様はそれを信じられて「右大臣の位を免じ、太宰権師に任ず」と命じられました。昨日まで天下を治めていた右大臣が、今日は遠い太宰府に流されるというのです。余りにもひどい藤原氏のたくらみに口惜しく思われましたが、道真公は素直に家族の人と別れて九州へ下られる事となりました。
苦しい長い旅路の果て、やっと太宰府に着かれた道真公は榎寺という所に入れられ、その日その日の生活に困りながらも不平不満を言わず、人を恨むこともなく、ただ詩や歌を作って苦しい心を慰めておられました。また、ある時は天拝山の頂上に登られ、国家の栄える事と天皇様のおすこやかな事を祈られ、そして自分の罪が無実であることを天に訴えられました。生活は貧しく、書物を読む火をともす油を買うこともできず、雨は漏るままで直すこともできず、本当に哀れな有り様でしたが、再びなつかしい京都へ帰りたいとの思いを胸に、心だけはいつも清らかにまっすぐでした。
59歳の時、とうとう病気で亡くなられました。
文章を作られては一代の文学者、筆をとられては日本一、よく書物を作り、文化を高め、また政治をとっては国のため、人のためにつくし、一生誠の日本の心を持ち続けられた道真公も、とうとう九州の太宰府で寂しく亡くなられたのです。この様に、清らかな誠心をもって、大きな功績を立てられた道真公をお祀りしたのが天満宮です。

公式HP



綱敷天満神社

菅原道真公が筑紫へ下向の時風波の難により当地へ流着され、郡司越智息利ら里人と共に道真公の至誠に接し、後に片身の神像を素波神と称して奉祀した。伊予旧記によれば天慶5年9月25日の創建と伝えられている。
 元弘3年9月25日国主伊予守越智通村より神殿の再建と神田の奉納があり、河野一門の崇敬篤く、天慶5年素波神を綱敷天満宮と改称した。  正徳2年神仏分離により荒神社に合祀したが、享保5年6月28日松山藩主松平隠岐守により現在の地に社殿を建立した。

兵庫県神社庁






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