六甲山の麓の街中、傾斜地に鎮座する。 河内国の国土神を奉斎した社であつたが、中古菅原道真公を合祀して以来、いつしか「天神」と称するようになつた。 この地は摂津国造凡河内氏の勢力範囲であり、祭神としては天御影命を祀るのが本来であるが天御影命を祀つたという痕跡は全くなく、古くから大己貴命と少彦名命を祭神としていた。 国魂信仰の一環として早くからこの地方に居住していたと思われる出雲系氏族の国土神を奉斎していて、後に移住してきた凡河内氏にひきつがれて奉斎されてきたものと思われる。 東側に隣接して旭曜山海藏寺という寺がある。これはかつての神宮寺である。 延喜元年菅原道真が筑紫へ下向の際海藏寺の法性房僧正と名残を惜んだ。その後当社を天満宮として崇拝することになつたと伝えている。 |
由緒 当河内国魂神社の創始は古来伊勢神宮開社の頃であると言伝えられていますが其の正確な年号は詳ではありません。 然し旧摂津国莵原郡にあっては、西宮神社、保久良神社と当社の三社が、生田神社、長田神社等と同様、延喜式神祇部に載っており、千数十年前既に由緒ある名社として崇敬されていたことが想像出来ますが、その後の沿革は定かではありません。 御祭神は大己貴命、少彦名命、菅原道真公であって、大己貴命(大国主命)は少彦名命と相協力して国土経営に当られ、その功特に著しく、又慈愛の心篤く、福徳円満、縁結びの神として、尚酒造、医薬の祖神として七徳兼備と称えられ広く尊崇されています。一説には摂津国造である凡河内忌寸の祖、天御影命を祀っていたのであろうと言われますが其の間の消息も永い年代を経た現在詳しくはわかりません。 降って延喜年間、菅原道真公が筑紫の太宰府へ謫遷の途次、御影の浜に船を留め、当時此の地に閑居しておられた師父尊意僧正と当社頭に於いて餞別せられた時の応対が極めて慇懃丁寧で、此の様をかいま見た村人達は其の徳を慕って菅公の歿後、其の霊を勧請合祀して爾後俗に五毛天神と称し現在に至っています。此の菅公は勧学の神、又文墨の神として広く神徳を讃えられていることは皆様ご存じの通りであります。 右の如く当社は元此の地方の大氏神として深く崇敬せられ、現在は五毛、畑原、上野の三地区が氏子でありますが、昔は稗田、鍛治屋、山田、篠原も氏子となっていました。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
河内國魂神社 当社の創始は、伊勢神宮開社の頃(西暦前3年)であると語り伝えられているが、正確な年号は判然としない。しかし、『延喜式神祇部』に所載の神社として、千数百年前既に由緒ある名社として尊崇されていたことが想像できる。 当社に祀られている御祭神の大己貴命は、少彦名命と力をあわせ国土経営に当られ、慈愛の心篤く福徳円満、医薬酒造の祖神、また、七徳兼備を称えられ広く尊崇されているが、一説には、摂津国造凡河内忌寸の祖を祀っていたのであろうといわれている。 延喜年間(901〜)、菅原道貞公が筑紫の太宰府へ左遷の途次、御影の浜に船を泊めたとき、菅公との別れを惜しみひそかにこの地まで下向した師父尊意僧正(延暦寺第十三代座主)と社頭において餞別の際、その応待が極めて慇懃丁寧なるを垣間見た村人達が、菅公の没後、その勧学文墨の徳を慕って御霊を勧請合祀し、俗に五毛天神と称せられるようになった。 当社は元、この地方の大氏神として厚く崇敬され、昔は稗田・鍛冶屋・山田・篠原の四ケ村も氏子となっていたが、現在は五毛・畑原・上野の旧三ケ村が氏子である。 兵庫県神社庁 |
河内國魂神社 鍬靫 河内国魂は加不知久爾多麻と訓べし〇祭神明か也○都賀荘五毛村に在す、今天神と称す、(摂津志) 神社覈録 |
郷社 河内國魂神社 祭神 大己貴命 少彦名命 菅原道眞 創立年月詳ならす、(〇明細帳)延喜の制小社に列せられ、祈年祭鍬靭各一口を加へ奉らる、神名帳考証に云く、 「今称御影森、森中有社、称天神、在五毛村、今称大神、有文明社記、」 と、明治6年8月村社に列し、後郷社に昇絡す、社殿は本殿、拝殿、及絵馬堂を具備し、境内地183坪(官有地第一種)あり、38年中内務省指令甲第537号を以て、更に上地林一畝八歩を境内に編入せらる。 明治神社誌料 |