岡太神社
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   【延喜式神名帳】岡太神社 摂津国 武庫郡鎮座

   【現社名】岡太神社
   【住所】兵庫県西宮市小松南町2-2-8
       北緯34度43分17秒,東経135度22分45秒
   【祭神】天御中主大神 (合祀)高皇産靈神 素盞嗚神 稻田姫神 大己貴神 蘇民將来
   【例祭】10月11日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】寛平五年(893)に広田の人岡司新五が、この地を開いた
       延喜元年(901)に社を創立
       享保19年(1734)並河誠所が式内社に比定
       明治6年(1873)8月村社
       同12年4月県社昇格

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造
       拝殿・社務所。手水舎

   【境内社】白山宮

武庫川西岸近く旧国道に面した住宅地の中に鎮座する。
社傳によると、寛平5年(893)に広田の人岡司新五が、この地を開いて浜村と称したという。
阪神大震災で社殿倒壊


延喜式内岡太神社略記

祭神 天御中主大神
天の真中に坐して、世の中の宇斯たる神と申す意なり。
天の初発の時、高天原に生りませる神にして神道における根本神祇なり。
相殿 高皇産靈神 素盞嗚神 稻田姫神 大己貴神 蘇民將来
由緒
伝に曰く宇多天皇寛平5年(853)武庫郡広田の人岡司氏此地を開発して浜村といい延喜元年天御中主神を主神に広田の大神5柱を末社として共に鎮座せしを起源とし由って岡司美也と称す。
合祀神5柱は、元上の宮と称して本社の北に当たる人家の間にありしを明治5年合祀せるなり。
明治6年8月村社に列し、同12年4月県社となる。
吾妻鏡建久3年の条に武庫御厨小松庄と記せるは此地なるべし。
境内に小松内大臣平重盛の供養塔を保存す。
祭日 例祭10月11日
    夏祭7月16日

社頭掲示板



岡太神社の石標

この碑は、江戸中期の碩儒並河誠所が有志と、社殿の廃滅や祭神の由緒などの誤り伝えられていた延喜式所載の摂津国の古社20社につき踏査考定して、正しい社名を明らかにするため、時の寺社奉行大岡越前守忠相に上申し元文元年(1736)から翌年にかけて建立した碑石の一つです。
表面に神名帳に記載の社名、側面に村名、裏面台石に同志菅広房(山口伊兵衛)の名が刻されています。

社頭掲示板



恵比須大神と静止像

西宮神社に御鎮座の恵比須大神は武庫の沖から御来臨になり最初、鳴尾でお祀りしていたとの口碑かあります。小松では、その大神が毎年正月9日の夕に押照営(岡太神社)で高潮や洪水等の災害を未然に静止(防止)して五穀豊穣をもたらす猪(静止)打神事をされると伝えられこの神事の妨げにならぬよう斎籠をする風習がありました。これは静止を猪にかけたもので、「猪」は大神の伎使わしめと云われています。
当社では摂社に大神をお祀りし昔語を後せに伝えるよすがとして彫刻家柏木秀峰作の静止像(亥)を安置しています。

社頭掲示板



西宮市指定重要無形文化財 岡太神社一時上臈

岡太神社の例大祭は、毎年10月11日に行れ、一時上臈と称する御幣(ごへい)が奉納される。
祭祀組織は南・北二つの講から成り、各一戸が任期一年の頭役(とうやく)を輪番によりつとめる。
祭りの前々日に南・北両講の者が社務所に集まり、竹串の先に直径約9cmの輪をつけ、紅白の紙により宝冠状(ほうかんじょう)に飾った御幣を18本つくる。北講の幣は女、南講は男であるという。
祭りの当日、餅・柿・柚・柘榴(ざくろ)・栗などの供物を入れた唐櫃(からひつ)の上に直径約11mの藁の輪に15本の幣を立て頭屋から神社に運ぶ。行列は手桶を持って笹で道を払う少年、頭屋の主人、神官、伶人(れいじん)、巫女、幣をのせた唐櫃の順で、北講の後に南講が続く。供物・幣を神前に供えて祭礼が行われる。
祭りの当日、午後4時頃になって拝殿に南・北両講の頭屋があがり栗・柿・里芋・焼豆・腐の汁による直会がある。かつて氏神の祭礼には村人が順次頭役を勤め後継者となる少年が祭祀の役割を分担し、巫女的な少女か供物を奉斉した。これが当地では露払い役となり、少女は一時上臈にその名をとどめている。直会の席はかつての宮座における頭役交替の姿を、藁輪は神聖な頭屋の標識を、供物直会は村人のハレの日の食物を伝えている。
私達は現在に残る特殊神事を通じて中近世における宮座を中心とする祭祀組織、伝統的な祭りのあり方を知ることができる。
西宮市教育委員会

社頭掲示板



岡太神社

 岡司神社(おかしじんじゃ)古記に大倭高市郡岡邑(おおやまとたけちこおりおかむら)の司(つかさ)、岡司氏、故有りて摂州武庫郡廣田郷に移居し、宇多天皇寛平5年(893)この地に来りて田畑を開き耕作せるに度々(しばしば)暴風雨、洪水、高潮等ありて五穀熟せず、同9年(897)一度廣田郷に帰復す。
 一日 高隈ヶ原(たかくまがはら)に至り廣田社前に憩いて一睡せるに1人の老翁出現して曰く「汝 武庫の濱にて耕作すと雖(いえど)も五穀稔らさるは是 天の二十八宿の行度不順なる故也。汝 彼地に至りて開闢神(かいびゃくしん)を祈り星宿に祈請せは其憂(うれい)なき也」と。夢醒(さ)め廣田の大神の託宣と気づき感奮して再度この地に来り、開闢神と星宿に祈願して遂に五穀豊穣なるを得たり。茲に於て此地を濱村と名付け、延喜元年(901) 天御中主大神と廣田の大神五座を祀る神殿を構へたり。由って時俗 岡司宮(おかしのみや)と呼称す。と誌せり。
 合祀神五座は元、上の宮と称して当社の北に当る人家の間にありしも明治8年本殿に合わせ祀りしものなり。
 平成12年、本殿改築。

兵庫県神社庁



平重盛之城趾

「平重盛之城趾」碑
平重盛の居館伝承地があったことを示す顕彰碑。
かつて「伏松」という小高い丘が岡太社の西南にあり,それが「重盛居館」の伝承地とされた。
重盛は平清盛の長男。「小松内府」と呼ばれたことから、武庫川流末にあって平氏の領有であった「小松庄」に居舘があったと理解されるようになった。
本碑は.昭和3年に地元実践青年団によって建てられ、その後いったん西方へ移され、昭和46年に岡太神社境内に移築された。
西官市教育委員会

社頭掲示板



岡太神社

岡太は哀加多と訓べし○祭神詳ならず○領家荘小松村に在す、今音歌始祠と称す、(摂津志)
類社
伊勢國河曲郡、越前国今立郡岡太神社、(各一社)

神社覈録



縣社 岡太神社

祭神 天御中主命 
合殿 素戔鳴大神 高皇産霊大神 大己貴大神
   稻田姫大神 蘇民將來
本社は元と音歌始詞と称す、(神名帳考証)延喜6年の創立にして、廷喜の制、式内小社に列せらる、摂津巡覧名所図絵に「押照宮摂津志に、ここを式内の岡田神社と書したるは非也、岡田神社は門戸村にあり、神名帳考証云、在小松村、今称音歌始祠、神紙志料云、今廣田村の岡田山にあり」(飯田永夫口話)とあり、明治12年4月縣社に列す。
社殿は本殿、拝殿、絵馬所、手水舎、及社務所等を具へ、境内は877坪(内235坪は官有地第一種、243坪は民有地第一種)を有せり。

明治神社誌料



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順悠社