逆瀬川東岸近くに鎮座している。 古来宝塚の総鎮守とされている。 安土桃山時代、加藤清正が文禄・慶長の役で朝鮮から持ち帰った虎を境内で飼育したと伝えられる 。 寛政7年4月の古文書によると時代の推移とともに漸く荒廃し、その間神主、社僧も無きままに氏子中に宮講を組織して神社に奉仕してきた。 かつての神宮寺は塩尾寺で今日も存している。 |
由緒 当社は、延喜の御代(約1060年前)式内の官幣大社として、近郷の尊崇をあつめた古社。御祭神の須佐之男命(すさのおのみこと)は和歌の祖神、学問の守護神、縁結びの神、開発の神。迦具土神(かぐつちのかみ)は火の守り神である愛宕(あたご)の神。又末社、宝塚水天宮は安産の神、水商売の神。 伊孑志、小林、蔵人、鹿塩四村を領家ノ荘(りょうげのしょう)と呼ばれ(摂津志)当社の小字、良元ノ庄が旧良元村の発生地、古来宝塚の総鎮守であります。(本殿は市指定の文化財・境内は市指定の保存樹林) 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
伊和志豆神社 当社は、延喜の御代式内の大社として、近郷の尊崇をあつめた古社。御祭神の須佐男命は和歌の祖神、学問の守護神、縁結びの神、開発の神。迦具土神は火の守り神である愛宕の神。又末社、宝塚水天宮は安産の神、水商売の神。 伊孑志、小林、蔵人、鹿塩4村を領家ノ荘と呼ばれ当社の小字、良元ノ庄が旧良元村の発生地、古来宝塚の総鎮守であります。 社頭掲示板 |
伊和志津神社 伊和志津神社は、延喜の御世から近郷の尊崇を集めた宝塚随一の古社です。 式内の大社として、延喜式神名帳にも記載されています。 延喜式とは養老律令の施行細則を集大成した法典で、平安中期の927年に編纂されました。 9、10巻が神名帳で当時の官社とされていた神社の一覧です。 それ以前の記録では「日本三代実録」に貞観元年(859年) 従五位下を授かるとありますので、正確な創祀は不明ですが、古代から朝廷とつながりが深かったことがわかります。 由緒 伊和志津神社から伊和志豆神社へ 現在は伊和志津ですが、その昔は伊和志豆と記されていました。 文字が変わった時期や理由はわかっていませんが、境内にある手水舎横の碑(明治27年建立) には伊和志豆とありますので、変更はそれ以降だと思われます。 言い伝え 戦国武将・加藤清正が、朝鮮出征のとき虎を生け捕りにして連れて帰りました。 しかし、豊臣秀吉のいる大阪城内では危険で虎を飼うことができません。そこで広い境内を持つ当神社の藪で飼うことになったといわれています。 虎は肉食ですが、当時は肉など手に入りません。 仕方なく犬を与えようとしたところ、その犬が猟犬で虎に咬み付いてしまいました。 大切な預かりものの虎ですから大変です。 村の役人が大阪の奉行所に相談すると「犬に咬まれるような虎など、すてておけ」ということになりなんのお咎めもなかったということです。 御祭神 須佐之男命(スサノオノミコト)は厄病災難除の神、学問の守護神、縁結びの神、開発(生産)の神として御神得を発揚される神であります。 末社の宝塚水天宮は安産の神、水の神、商売の神である安徳天皇をお祀りしています。 愛宕社は迦具土神(カグツチノカミ)を祀り、火の守り神です。 公式HP |
伊和志津神社 当社は、延喜式内の官幣大社として、近郷の尊崇を集めた古社。御祭神の須佐之男命(すさのおのみこと)は和歌の祖神、学問の守護神、縁結びの神、開発の神。 又、末社・宝塚水天宮には安産の神、水商売の神でもある安徳天皇を祀る。火の守り神である迦具土神(かぐつちのかみ)を祀る愛宕社(あたごしや)もある。遥拝所として石の祠に祀られている天照皇大神宮・春日大明神・山神社・八幡宮・大将軍社があり、地蔵舎には20体の地蔵は古来この地域の住人が敬神崇祖の念を表していると思われる。江戸期に結成された「伊勢講」「愛宕講」は現在も継承されている。 伊子志(いそし)、小林(おばやし)、蔵人(くらんど)、鹿塩(かしお)四村を領家ノ荘(リょうげのしょう)と呼ばれ(摂津志による)当社の小字、良元ノ庄が旧良元村の発生地であり、古来 宝塚の総鎮守と言われている。一間社春日造柿葺の本殿は墓股・組物・木鼻など優れた技法で造られており市の文化財に指定。境内は市の保存樹林に指定されている。平地にあり3000坪余りの境内は、バリアフリーに対応し、老若男女・四季を問わず、市民の憩いの場として愛されている。 兵庫県神社庁 |
伊和志豆神社 伊和志豆は假宇也、(比保古に、作鰯津と云り、)〇祭神詳ならず○領家荘伊子志村に在す、(摂津志) 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授摂津國從五位下伊和志豆神從五位上、 神社覈録 |