名次神社
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   【延喜式神名帳】名次神社 鍬靫 摂津国 武庫郡鎮座

   【現社名】名次神社
   【住所】兵庫県西宮市名次町 5
       北緯34度45分4秒,東経135度19分58秒
   【祭神】水分大神
       『神社覈録』『特選神名牒』祭神詳かならず
        『神名帳考証』祈雨神
       『西宮廣田独案内』天御中主神

   【例祭】10月11日
   【社格】
   【由緒】創立年代は、詳らかでない
       大同元年(806)神封『新抄勅格符抄』
       貞観元年(859)正月27日正五位下『三代実録』
       同年9月遣使奉幣風雨祈
       元禄5年(1692)5月西宮浦商人戎講中石鳥居寄進
       正徳5年(1715)4月石祠に改めて遷宮
       明治11年2月22日広田神社の摂社となる
       明治41年5月現位置に移転

   【関係氏族】
   【鎮座地】名次山の中央景勝の地にあつた
        明治41年5月現位置に移転

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】稻荷社

西宮市の上水道の水源地になつているニテコ池の上池の西北岸にあり。
もともとは名次山の中央景勝の地(詳細な場所は不明。恐らく現在地の南方)にあつたが、明治41年5月にその丘陵の北端(南郷山)にあたる現位置に移転した。元の鎭座地は詳かでなく、又どういう理由で移転したか、いまでは明らかでない。
この越水丘陵、南郷山一帯は、弥生式時代から発達したところで、周辺に弥生式の顯著な遺跡が多いため、早くからこの地で神祭りが行われていたものと考えられる。
一説に「もともと名次神社は浜近くの越水丘陵の南端に祀られていましたが、夙川の流れが運ぶ土砂の堆積によって南下した海岸線にあわせて漁民たちが移り住んでいったために次第に衰退し、摂津国守護・細川高国公に仕えていた豪族・瓦林正頼公が1516(永正13)年に越水城を築城した際に名次山の中腹へと遷され、さらに明治時代に入って現在への場所へと遷座されました。」とある。
現在名次山の頂上付近に「旧跡名次神社跡」の石碑が建っている。


名次神社

古来より衣食住に殊の他関係深い水分神を奉祭すると特に雨乞いに霊験あらたかなる社であります。御創立の年代はつまびらかではありませんが、第56代清和天皇貞観元年正月正5位下の神階を授けられ、同年9月8日風雨御祈りのため、勅使を参向せられ、幣帛を奉られています。
第60代醍醐天皇の延喜の制大社に列せられ、月次、新嘗及び祈雨の幣帛を奉られています。旧本殿は石造りで中御門天皇正徳5年正月再建、又石鳥居は元禄5年の建立であります。名次山はわが国最古の歌集万葉集巻3に「吾妹子に猪名野は見せつ名次山角の松原いつか示さむ」高市連黒人によって詠まれ、すでに1200年の昔より、名勝地として名高く現名次町は古昔の名次山であり明治末期まで当神社の境内地でありました。かって当神社は名次山中央の景勝地に鎮座されていましたが、明治41年5月その北端の現位置に移転されました。

社頭掲示板



旧地

HN凛太郎氏はWEB頁で(http://blog.livedoor.jp/p_lintaro2002/archives/55402954.html)当初の鎮座地を北緯34度44分56秒 東経135度20分15秒の地と比定している。この地に越水城は築かれたとき移転し、その移転先は西宮市西田公園の地(北緯34度44分36秒 東経135度20分8秒)に比定している。



名次神社

祭神;名次大神
創立年は詳らかではありませんが、平安時代初期の文献に見られます。『延喜式』 では官幣の大社に列し、廣田社と共に祈雨神祭に預かっています。中世には神祇 伯を世襲した白川家の崇敬を受けました。 明治11 年、廣田神社の摂社に定められました。 もと、名次山の景勝地に鎮座していましたが、明治41 年に現在地に移転しまし た。

広田神社HP



名次神社 大月次新嘗

名次は奈須伎と訓べし○祭神詳ならず○廣田社西名次丘に在す○式三、(臨時祭)祈雨祭神八十五座、(並大)云々、名次社一座、
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授摂津国從五位下名次神正五位下、
官幣
三代実録、貞観元年9月8日庚申、名次神、遺使奉幣、為風雨祈焉、

神社覈録



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