売布小学校の北隣、叢林深く山麓の神社。
武庫川が武田尾の渓谷を経て、西振平野に流れ出る典型的な扇状地にある。 現在地に当初より鎮座していたものと判断される。 13,000uの境内全域が環境保全地区に指定。シイ林などの社叢は、市の天然記念物である。 中世以来、「貴布禰神社(きふねじんじゃ)」と称していたが、江戸時代に地誌学者の並河誠所が調査した結果、この社が延喜式の神名帳に載せられた式内社の売布社であることが分かり、以後売布社と称するようになった。 |
売布神社の由来 今から約1380余年前の推古天皇18年の御創建で御祭神は下照姫神(大国主神の姫君)とその夫君の大稚彦神をお祀りしています。 当地に来られた下照姫神は住民が飢えと寒さで困窮せるを見給いて稲を植え、麻を紡ぎ、布を織ることを教えられました。その後豊かな生活を送ることができた里人はその御神徳を慕い聡明で美しい姫神さまをお祀りしました。 現在では、衣・食・財の守護神としてまた恋愛結婚成就の神様として崇敬されています。 延喜式内社として近郊に知られ、宝塚市内唯一の旧・郷社であります。 拝殿前の社号標石「売布神社」一基と社叢4100平方米は宝塚市文化財に指定されています。 平成八年 元旦 社務所 社頭掲示板 |
賣布神社 第66代醍醐天皇の延喜5年(905)制定の延喜式巻九神名帳上に摂津国七十五座の一つに加えられ官幣社として、神祇官をして幣帛を供進されました。 第55代文徳天皇が綸旨あれてからは代々の天皇が続けられ、右大将源頼朝が命じてから庶民の信仰も多くなり、第91代後宇多天皇が参篭されました。 いづれの頃からか佛者に乱されて「貴船大明神」と誤り崇められていたのを、徳川八代将軍吉宗が元文元年に寺社奉行大岡越前守忠相に命じ大阪の佛者並河五市郎が調査した結果、「売布神社」が正しい名称であることが判明、同年「売布社」の社号右を寄贈され、現在も拝殿前に存しています。 現在では、衣・食・財の守護神として特に繊維業界、食料業界、金融界の方々の信仰が深く、またご夫婦の神をお祀りしているところから恋愛・結婚・就職の神さまとして崇敬されています。 兵庫県神社庁 |
売布神社 売布は假字也〇祭神若湯坐連祖歟○多田荘米谷村に在すO旧事紀、(天孫本紀)宇摩志麻知命七世孫大燈z命、若湯坐連等祖、」姓氏禄、(摂津國神別)若湯坐宿禰、神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也、」高橋氏文、(本朝月令所引用)若湯坐連祖、意富売布連、云々、 類社 丹後國竹野郡、同国熊野郡、但馬國氣多郡、出雲国意宇郡売布神社、(各一座)尾張国中島郡売夫神社 氏人 三代実録、貞観5年8月8日戊辰、摂津國河辺郡人散位正六位上若湯坐連宮足、主殿允正六位上若湯坐連仁高等三人、改本居隷右京職 神社覈録 |
郷社 売布神社 祭神 高比売命 天稚彦神 創建は文化7年の炎上の際旧記古文書悉く失ひ。為めに今由緒沿革を詳にすること能はずと雖も、(O社伝)推古天皇18年の勧請にして、(〇明細帳)延喜の制小社に列せらる、御神体は木像に坐ます由、旧貴布禰明神とも称し、古来此の地の産土神たり、(O摂津名所図会、神名帳考証)神社覈録に、 祭神若湯坐連等祖、旧事紀(天孫本紀)宇蒙志麻知命七世孫大燈z命若湯坐連等祖姓氏録(摂津国神別)若湯坐宿禰、神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也、」橋氏文(本朝月令所引用)若湯坐連始祖、意富売布連、云々」 と見ゆ、明治6年8月郷社に列す、社殿は本澱、拝澱、及社務所を具へ、境内地は1253坪(官有地第一種)あり、36年中内務省指令甲第137号を以て、上地林反別二町六畝二十八歩を境内に編入せられたるも、新に編入の反別は四十二中切畑村へ下戻確定に付、民有地に組換らる。 社地は山麓に位し、老松四周を廻らし、南方遙に大阪湾を望む。 明治神社誌料 |