猪名川の支流である塩川の扇状地に臨む高台にある山麓の神社。 太田々根子の子孫神人(みわ)氏がこの地にて祖神を祀ったとされる。 中世、多田源氏守護の神として崇敬された。多田荘を根拠地とした多田満仲公が京都平野神社より勧請以降平野神社と称された。 明治に入り神社に移行した多田院(現在の多田神社)と区別するため地元では「たぶとじんじゃ」と呼ばれている。 |
由緒 創立年代は明らかでないが、延喜式内社である。現在の建物は覆屋内にあり正面柱間2.4mの社殿である。其の建築年代は内陣廚子内小箱の墨書により元禄6年(1693年)の造営であることが確認される。租物や蟇股なども時代の特徴をよく表している。ただし、背面の蟇股や脇障子の欄間などに桃山風が認められる。記録によると天正6年(1578年)にも再建されたことがわかるので、これはその際の遺材であろう。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
多太神社社号標石一基 (法量)総高151.5cm 江戸時代につくられた地誌のうちもつとも高く評価されている「五畿内志」の著者並河誠所は、摂津国内の延喜式所載の古社中当時その由緒が誤り伝えられたり、また廃社となつている20社について精確な考証をおこないそれぞれの由緒の埋滅をふせぐため元文元年(1736年〕各社々頭に社号標石を建立した。この標石はその一つで、方24.0cm高91.0cmを測り、正面に多太社の三字を、右側面に平野村の三字を刻している。この文字は誠所自らの執筆と思われる。台石は二段からなり下段は方26.0cm高28.0cm、上段は方43.5cm高26.0cmを測り、上段裏面に「菅広房建」と刻してある。 社頭掲示板 |
多太神社 創立年不詳。延喜式内社。 現在の建物は覆屋内にあり正面柱間2.4mの社殿である。其の建築年代は内陣廚子内小箱の墨書により元禄6年(1693)の造営であることが確認される。租物や蟇股なども時代の特徴をよく表している。ただし、背面の蟇股や脇障子の欄間などに桃山風が認められる。記録によると天正6年(1578)にも再建されたことがわかるので、これはその際の遺材であろう。 兵庫県神社庁 |
多太神社 多太は假字也〇祭神詳ならず○多田荘平野村に在す、今平野明神と称す、 類社 大和國葛上郡多太神社の條見合すべし 神社覈録 |
郷社 多太神社 祭神 日本武尊 伊弉諾尊 伊弉冉尊 大鷦鷯尊 旧と平野神社とも称す、(〇摂陽群談)創立年月詳ならす、(〇明細帳)但、京都平野神社の勧請なりと、(摂津名所巡覧図会)延喜の制、小社に列せられ、後源満仲社殿を修補せしことありと、古来近隣四ケ村の産土神にして、明治6年8月郷社に列す。 社殿は本殿、幣殿、拝殿、神饌所を具へ、境内地は427坪(官有地第一種)あり。 明治神社志料 |