伊居太神社
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   【延喜式神名帳】伊居太神社 摂津国 川辺郡鎮座

   【現社名】伊居太神社
   【住所】兵庫県尼崎市下坂部4-13-26
       北緯34度44分50秒,東経135度26分1秒
   【祭神】武甕槌神 (配祀)天児屋根命 経津主神 姫大神 (合祀)市杵島姫命
       元は坂合部連の祖神「坂合部大彦命」を祭祀

   【例祭】10月9日 例祭
   【社格】
   【由緒】移転の記録はない

   【関係氏族】坂合部連
       新撰姓氏禄 「摂津国皇別  坂合部  大彦命之後也  允恭天皇御世、造立国境之標、因賜姓坂合部連」

   【由緒】仁徳天皇77年11月13日社殿創建
       延暦4年(785)11月13日社殿再営
       貞観2年(860)清和天皇勅定をもって社殿の修復

   【祭祀対象】氏祖、古墳の上にあり
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

近松公園の東側を通る府道近松線を渡ると伊居太古墳がる。ここは5世紀頃に築造された市内最大の前方後円墳で、この地に勢力をもった豪族の墳墓と伝えられている。この古墳上に鎮座している。
当地が本来の鎮座地とされている。
『川西市史』の考証によれば、尼崎市下坂部に式内社伊佐具神社に隣接して伊居太神社があること及び伊居太神社が池田の地に移されて後も行われた神輿渡御の御旅所の所在地が塚口村にあつたとされることから、ほゞこの地域に式内社伊居太神社の鎭座地を比定できるとしている。
伊居太神社 「沿岸と由来」(1999)によれば、坂合部氏の居住地で、氏族の首長大彦命及びその後胤を祀る神社であったが、藤原氏が支配した際に春日大社を勧請したとされている。


伊居太神社

御祭神
武甕槌神(たけみかつちのかみ)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
経津主神(ふつぬしのかみ)
姫大神(ひめおおかみ)
配祀
市杵島命(いちきしまひめのみこと)
大将軍(おおいくさのきみ)
祭典
歳旦祭 1月1日
春季祈年祭 3月1日
秋季例大祭 10月9日
新嘗祭 12月12日
御鎮座の御由緒と沿革
この地域は、弥生時代以来の集落が発達した地で、悠久の歴史とロマンスを秘蔵するが如き鎮守の森、黄土色粘土でかためた前方後円墳の後円部の中央に、当神社が鎮座している。
新撰姓氏録摂津神別に、「坂合部大彦命之後也、允恭天皇御世造立国境之標因賜姓坂合部連」と記載されている。大彦命は孝元天皇第一皇子として生まれ、この大彦命の子孫である坂合部連は朝臣として、允恭天皇に仕え、日本国内の国の境の標示を造立し、当地域を開拓した。それで当地城は坂合部とよび、それが何の日か坂部から下坂部とよぼれるようになった。
尼崎市内に残存する古墳の中で、最大のこの古墳は、坂合部連の氏族祖神の古墳であろう。
その後古墳上に、神社を建立してその祖神を崇敬したものと思われる。創祀年歴は不明である。
当初は前記のように、氏族の首長大彦命之及びその子孫を御祭神として、祀られた神社であったが、藤原氏の全盛期、当地域を支配した藤原の祖神である春日大社を、勧請奉祀したものであろう。
人皇第60代醍醐天皇が制定された延喜式神名帳に、式内社伊居太神社とあるのは、当神社である。
古老の伝承によれば、その昔、大和春日大社より神の使者、白い神鹿が当神社に到来したと云う。昔は春日大社と、深い係わりをもっていたようである。
江戸時代、藤原氏の子孫である青山氏が当地域を支配したのも、春日社が、藤原氏の祖神であったからである。
明治37年氏子の浄財で前の社殿が、改築された。
明治42年巌島神社(市杵島姫命)、皇太神宮援拝所(旧大将軍)、を摂社に祀る。
昭和42年頃から始まった当地域区画整理の進行にともなって、現在のような四面道路に囲まれた境内となる。
平成7年1月17日未明、阪神淡路大震災により大災害を蒙り氏子崇敬者の浄財で平成11年4月吉日新社殿手水含等が竣功した。
現に奉祀せる神神は天孫降臨に功績があり、我が国創業の偉業に参画し国内平定平和を祈る神で家内安全厄除招福の神として崇敬せられる。
伊居太古墳
この神社境内全体が古墳である。神社の社殿築造のために、原形は、著しく失われているが、南面する前方後円墳である。全長92m、後円部径53m、後円部高さ3m、前方部南側幅46m、古墳のまわりに周濠をめぐらし(幅20m)、尼崎市内に遺存する最大の古墳といえる。築造は古墳時代中期(五世紀ごろ)と考えられている。前方部南側には、サムライ塚、白馬塚と呼ばれる二基の小墳丘があった。これは陪塚(主人の死に殉じた者の塚)といわれている。
出土物は、埴輪片、土師器片、須恵器片などがある、鏡や鉄剣が出土したと伝えられる。
この古墳の周辺には若王子遺跡や下坂部遺跡があり、当地域に勢力を持った豪族の墳墓である。

由緒書



伊居太古墳

この古墳は、神社の社殿築造のために、原形は著しく失われていますが、南面する前方後円墳です。古墳の規模は全長約92m、後円部径約53m、後円部高さ約3m、前方部幅約46m、周濠幅約20mを測り、市内に遣存する最大の古墳といえます。築造は、古墳時代中期(5世紀ころ)と考えられています。前方南側には、サムライ塚、白馬塚と呼ばれる2基の小墳丘がありました、これは陪塚(主人の死に殉した者の塚)といわれています。
出土遺物は、埴輪片・土師器片・須恵器片などがあり、鏡や鉄剣が出土したと伝えられていますが、詳しいことはわかりません、この古墳の周辺には若王子遺跡や下阪部遺跡があり、当地域に勢力をもった豪族の墳墓です。

社頭掲示板



伊居太神社

御祭神 武甕槌神  歳旦祭   1月元旦
    天児屋根命 春季祈年祭 3月1日
    経津主神  秋季例大祭 10月9日
    姫大神   新嘗一祭  12月12日
配神 市杵島姫命(嚴島神社)
   大將軍(皇大神宮遙拝所)
洛革と由緒
当神社は、前方後圓墳の後円部のほぼ中央に鎮坐する弥生時代以来の集落の存在する地で、現在兵庫県尼崎市下坂部4丁目13番26号である。
新撰姓氏録摂津神別に「坂合部大彦命之後也允恭天皇御世造立國境之標困賜姓坂合部連」と記載されている坂合部氏族の居住地で、その子孫坂合部朝臣として朝廷に奉仕し、この地を開拓して土地の名を坂合部と称し、何時の日か下坂部と称するに至る。
尼崎市内に残存する古墳中最大のこの古墳こそ、氏族祖神の墳墓の地である。其の後憤上に神社を建立し、祖神を崇敬したものと思料せられるも創祀年歴等は不祥である。
当初は、前掲の如く氏族の首長大彦命及び、その後胤を祀る神社であったが、藤原氏の全盛期当地方を支配した際その祖神たる春日大社を勧請奉祀したものと信じられる。
人皇第60代醍醐天皇制定された延喜式神名帳に、摂津川辺郡に伊居太神社ありとあるのは、正に当神社のことである。
古老の伝うる処によれば、昔大和の春日大社よリ神の使者として神鹿が当神社に到来したと云う。
後世江戸時代に至り青山氏がこの地を採配する、青山氏亦藤原氏の後胤にして春日社はその祖神である。
平成7年1月17日未明、阪神淡路大震災によリ大災害を蒙り氏子崇敬者の浄財で平成11年4月吉日新社殿手水舎等が竣功した。現に奉祀せられる神神は天孫降臨に功績があり、我國創業の偉業に参画し國内を平定平和を希ふ神なれば家内安全厄除招福の神として崇敬せられる。
平成11己卯年5月
伊居太神社

社頭掲示板



伊居太神社

新撰姓氏録摂津神別に、「坂合部大彦命之後也、允恭天皇御世造立国境之標因賜姓坂合部連」と記載されている。
 大彦命は孝元天皇第一皇子で、大彦命の子孫である坂合部連は朝臣として、允恭天皇に仕え、日本国内の国の境の標示造立し、当地域を開拓した。それが何の日か坂部から下坂部とよぼれるようになった。
 尼崎市の中で最大のこの古墳は、坂合部連の氏族祖神の古墳である。その後古墳上に、神社を建立して祖神を崇敬したものと思われる。創祀年歴は不詳である。
 当初は氏族の首長大彦命之及び子孫を御祭神として、長歳月にわたり祀られたが、藤原氏の全盛期、当地域を支配した藤原の祖神である春日大社を勧請奉祀したものであろう。
 人皇第60代醍醐天皇が制定された延喜式神名帳に、川辺郡に式内小社伊居太神社とあるのは、当神社である。
古老の伝承によれば昔、春日大社より神の使者、白い神鹿が到来したと云う。
 明治6年、村社に列せられる。
 平成7年1月17日未明、阪神淡路大震災により大災害を蒙り、氏子崇敬者の浄財で平成11年4月吉日社殿手水含等が竣功した。

兵庫県神社庁



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