猪名川西岸台地の上に鎮座する。 この地は加茂遺跡であり、弥生中期から古墳時代までの遺跡がある。 もとは姓氏録にある摂津国神別の「鴨祝部」また撮津国皇別の「鴨君」の祖先神を祀ったと思われる。 |
由緒 創立年代は不詳なれども延喜式内社として近郷まれに見る古社であり、明治6年8月村社となり明治14年3月郷社に昇格す。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
加茂遺蹟 加茂遺蹟、川西市文化財指定 川西市南西部、伊丹台地(洪積台地)の北端に位置し標高38m〜44m。弥生中期(AD1c)から古墳時代(AD5c)までの集落趾。 弥生中期には遺蹟東側が居住区域、西を集団墓地に分けられてた、東からは円形の竪穴住居址・柱穴群と住居群を区画したと思われる溝など、西側からは方形周溝墓や土壙墓がみつかっている。一部に木棺があった形跡が見られる。 弥生後期には円形方形の竪穴住居址と集落を取巻く大溝などが発掘され、古墳中期には方形の竪穴式住居がみつかっている。旧石器時代のナイフ形石器、縄文時代後・晩期の土器も出土。明治44年に遺蹟東側斜面から銅鐸も出土。 川西市教育委員会 社頭掲示板 |
加茂遺蹟 加茂遺跡は、川西市の南西部。標高38mから44mにかけての伊丹台地(洪積台地)の北端に位置します。弥生時代中期(紀元1世紀)から古墳時代(紀元5世紀)までの集落址と乙して、近畿地方有数の遺跡です。 弥生時代中期には遺跡の東側が居住区域西側を集団墓地にわけられていたようです。東側からは円形の竪穴式住居址や柱穴群と住居群を区画したと思われる溝などがみられます。また、西側からは方形周溝墓や土拡墓がみつかっています。その一部には木棺があった形跡がみられます。 弥生時代後期には、円形、方形の竪穴式住居址も集落をとりまく大溝などが発掘されており、古墳時代中期には方形の竪穴式住居址がみつかっています。 弥生時代や古墳時代の遺物のほかに旧石器時代のナイフ型石器、縄文時代後・晩期の土器も出土しています。 また、明治44年に遺跡の東側斜面から銅鐸も出土しています。 なお宮川雄逸氏が採集した土器や石器を保管・展示している宮川石器館があります。 川西市教育委員会 社頭掲示板 |
鴨神社 鴨神社は、兵庫県川西市加茂の地に御鎮座(ちんざ)されています。『延喜式(えんきしき)』と言う、今から1千年以上昔に作られた書物の摂津国川辺郡(せっつこくかわべぐん)の項に記載されていることから、創立年代は相当古いと思われますが、現在神社には古文書などの歴史を探る資料は全く残されていません。 御祭神は京都に鎮座する上賀茂神社と同じく「別雷命(わけいかづちのみこと)」をお祀りしています。 境内社として、天照皇大神社(あまてらすこうたいじんじゃ)・春日神社(かすがじんじゃ)・松尾神社・荒神社(こうじんじゃ)・稲荷神社(いなりじんじゃ)・熊野神社・愛宕神社(あたごじんじゃ)・多賀神社・延寿社(えんじゅしゃ)の10社がお祀(まつ)りされています。 鴨神社を語るのに欠くことの出来ないものに、「加茂遺跡」があります。これは鴨神社を中心に約200メートル四方に存在し、旧石器時代から平安時代の集落跡で特に弥生時代中期には大規模集落が営まれていました。約2千数百年以前の弥生式文化を営んだ人々が生活していたところです。 この遺跡が知られたのは古く、明治44年に大型の銅鐸(どうたく)が出土しており、早くから考古学者の注目を引いていました。その後大正から昭和にかけて、宮川雄逸(みやがわゆういち)氏によって、多数の弥生式土器と石器の採集が行われ「宮川石器館」が開設されるに及んで、考古学界で特筆される遺跡となりました。 平成4年6月には、社殿(しゃでん)の裏手より古代小国家の首長の館跡(やかたあと)と思われるものや、防御施設とする土塁(どるい)や柵跡(さくあと)が発掘され、新聞の全国紙面で報道されました。また平成12年には「加茂遺跡」として国の史跡(しせき)に指定もされました。 現在わかっている加茂遺跡の考古学的成果と鴨神社の創立由来を直接的に結びつけることはできませんが、鴨神社が弥生式遺跡の中心地に鎮座していることは事実であり、推測すれば、鴨神社の創始は、弥生時代以来の地域集落の住民の安全や、稲作の豊穣(ほうじょう)を願う祈りの場所であったに違いないと考えられます。 さて、鴨神社の氏子の方は、都市近郊でありながら稲作や畑作の専業農家として生計を立てておられ、自然の恵みに感謝され、氏神(うじがみ)様へも深く崇敬(すうけい)されています。 鴨神社の恒例のお祭りで、 四季の2月20日は祈年祭。7月31日には茅の輪を設け、湯立神楽(ゆだてかぐら)をする夏祭。10月第2日曜日は例大祭で3年に1度、御神幸(ごしんこう)があり、お神輿(みこし)・太鼓みこし2台・お稚児(ちご)さんなど3百人ほどでのお渡御(とぎょ)が行なわれます。11月26日新穀感謝祭が行われ、それぞれ多数の氏子(うじこ)の皆さんが参列され、お祭りが行われています。 鴨神社の現在の境内地は約4千坪あり、近郊にはめずらしい程の緑深い森が、加茂遺跡と共に残されており、地域の皆さんの憩いの場ともなっています。 公式HP |
鴨神社 創立年不詳。 延喜式内社として近郷まれに見る古社であり、明治6年(1873)村社となり明治14年郷社に列せられる。 昭和45年に社殿開発し現在に至る。 鴨神社境内は国の史跡(加茂遺跡)にも指定されており、旧石器・縄文時代〜平安時代の集落遺跡で縄文後期には、すでに小さな集落が営まれていた事が遺構遺物からうかがえる。 弥生時代後期には畿内有数の大集落が形成され、興味深い事にその中心部には、今現在の鴨神社が鎮座している。 また弥生時代の祭りに用いられたと推定される遺物に銅鐸があるが、その銅鐸(栄根銅鐸・東京国立博物館所蔵)も神社近くで出土されている。 兵庫県神社庁 |
鴨神社 鴨は加毛と訓べし○祭神詳ならず○加茂村に在す、(摂津志) 姓氏禄、(摂津國皇別)鴨君、日下部宿禰同祖、彦坐命之後也、』同、(摂津國神別)鴨部祝、賀茂朝臣同祖、大國主神之後也、(按るに、鴨君鴨部祝等が氏社なるべけれど、定かならず、摂陽郡談に、祭神別雷命、云々、当社本居ノ村民、洛ニ登リテ加茂ニ詣ツルニ、社家火ヲ忌事ヲ許ス、と云り、さるに現在の事ならめど、そは本を誤れる後の事ならん、かゝる類ひ世に多し、当社は鴨君鴨部祝両氏の祖を祭れるにたがふまじと思ふものから群談によらず、) 神社覈録 |
郷社 鴨神社 祭神 別雷神 創立年月詳ならず、(○明細帳)但、延喜の制小社に列せられ、古来加茂村の氏神たり、(〇神名帳考証)相伝ふ、当村々民、京都に至り加茂に詣つるに当り、社家火を忌まずとO摂津群談神名帳考証)明治6年村社に列せしが、14年2月26日郷社に昇格す、社殿は本殿、拝殿、宝蔵を備へ、境内地は351坪(官有地第一種)あり、38年中内務省指令甲第666号を以て、更に上地林反別一町五反六畝五歩を境内に編入せられ、益尊厳を加ふ。 明治神社志料 |