垂水神社
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   【延喜式神名帳】垂水神社(名神大 月次/新嘗) 摂津国 豊島郡鎮座

   【現社名】垂水神社
   【住所】大阪府吹田市垂水町1-24-6
       北緯34度45分59秒,東経135度30分15秒
   【祭神】豊城入彦命 (配祀)大己貴命 少彦名命
   【例祭】10月20日 秋季例祭
   【社格】旧郷社
       延喜式臨時祭に祈雨神祭に預る神社八十五座の一

   【由緒】大同元年(806)垂水神神戸『新抄格勅符抄』
       承和8年(841)9月従五位下『続日本後紀』
       貞観元年(859)正月従四位下『三代実録』
       保安年間(1120−23)垂水神戸『摂津国正税帳案』
       中古兵災に羅りて衰微
       明治5年(1972)郷社
       同40年2月神饌幣帛料供進社

   【関係氏族】阿利真公
   【鎮座地】霊泉との関係から移転は無かったと思われる

   【祭祀対象】霊泉
   【祭祀】
   【公式HP】 垂水神社
   【社殿】本殿流造
       拝殿・神饌所・神具所及納家・祭器所・社務所

   【境内社】皇大神社・祓殿・稻生社・楠社
   【境内図】 境内図

千里山山裾に鎮座している。
神社の北側にかっては摂津一の薬水と称えられた清らかな泉からの滝があった。北大阪の開発の波で地下水脈が隠れ、今ではわずかに千里山からの水が流れているに過ぎないが、修行の場として残っている。
祭神の豊城入彦命は崇神天皇の皇子であり、その子孫である阿利真公がこの地におり、旱魃に見舞われた際、孝徳天皇の豊崎宮に高樋を通して垂水の水を送ったので、その功を賞して垂水公の姓を賜った。
もともと素朴な水の神を祀つていたのが皇室と深いつながりを持つようになつて崇神天皇皇子を祀るようになつたと思われる。
八十嶋祭に際し、住吉神、大依羅(よさみ)神、海(わたつみ)神、住道(すむぢ)神の外に垂水神が祭神としてかかわつている。
「石ばしる垂水の上のさ蕨(わらび)の萌え出づる春になりにけるかも」とは万葉集の巻八にある志貴皇子の歌だが、この歌の垂水は当地の垂水を指していると考えられている。


由緒

神崎川・淀川が、古来難波と呼ばれていたこの地を西に流れて茅淳の海にそそぎこむ、その北岸に鎮座する垂水神社は、7世紀のはじめの起源を今日に伝えている。
「新撰姓氏録」は、この地に勢力を持っていた阿利真公が大化の改新頃の旱魃のおり、垂水基岡(千里山)から湧き出る水を、当時の難波長柄豊崎宮に送り、その功をたたえられ、垂水公の姓を賜るとともに、垂水神社を創祀したという。
いははしる垂水の上のさわらびの
   もえいずる春になりにけるかも
(万葉集・志貴皇子)
と、万葉集にも詠まれた神水が洞れることなく、今も一千数百年の時を越えて垂水の滝として流れ続けている。
社伝によると、豊城入彦命は、崇神天皇の第一皇子でありながら、弟の垂仁天皇に皇位を譲り東国開発の旅に出た。のちに四道将軍の一人に数えられる豊城入彦命が、第一歩を記したのがこの垂水の地であり、子孫が神として祭り社を阿利真公とその末裔に伝えたという。なお、境内には弥生時代の住居址が確認されており、水にたいする信仰はかなり古くからあったものと思われる。
その後は、祈雨の神として朝廷をはじめ広く信仰をあつめ、平城天皇の頃に封戸の寄進をうけて以来、平安時代には、勲八等従五位下から従四位下まで、祈雨のたびに神階を進めた。延喜式(907年)制においては、名神火の杜に列せられている。また、大嘗祭にさきがけて行われたといわれる八十嶋祭において、朝廷より奉幣と祭料布を下賜されたといい、これを証明するように神崎川畔から古鏡が発見されている、また垂水の地には、最近まで律令制のなごりを伝える条里の遺構も見受けられた。
やがて、古代から中世の荘園の時代には当社を含む垂水荘は、豊かな農耕の地ゆえに東寺や春日大社などの有力社寺の所有権争いの対象となつていった。
近世にあっては、社寺の衰えという時代の情勢を越えて、熱心な信者に支えられ、天和三(1683)年に社殿を改築し、朝廷から十六弁の菊を神紋として使用することが認められている。
明治以後郷社となり、昭和四十九(1974)年、衰えることなき氏子崇敬者の熱意で造営奉賛委員会が組織され、今日の本殿・幣殿・拝殿を完成奉仕するに至った。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




垂水神社

式内大社垂水神社由緒書
鎮座地 大阪府吹田市垂水町一丁目二十四番六号
主祭神 豊城入彦命 相殿 大己貴命・少彦名命
社殿 本殿-銅版流造
   幣殿-同切妻造
   拝殿-同入母屋造
末社 戎社 金山比古命・金山比売命・豊宇気姫命・事代主命
   祓戸社 息吹戸主命・瀬織津比売命・速開津比売命・速佐須良比売命
   皇太社 伊佐那岐命・併佐那美命・天照大神
   楠社 大綿津見命・市杵島姫神
御旅所 楠明神社 大綿津見命・市杵島姫神
その他 不動堂
御由緒
(上掲 全国神社祭祀祭礼総合調査と同一)
主な御祭礼
一月一日  歳旦祭
一月十日  垂水戎
一月十五日 どんと祭
二月三日  節分祭
五月二十日 宵宮(御旅所祭)
五月二十一日春祭
六月三十日 夏越の祓
十月二十日 宵宮(御旅所祭)
十月二十一日秋祭
十二月三十一日大祓
毎月八日不動堂護摩

由緒書



垂水遺跡

垂水遣跡は千里丘陵東南端の丘陵上に展開する弥生時代を中心とする集落遺跡であり、垂水町1丁目から円山町にかけて拡がっています。 昭和初期に住宅開発に伴って発見され、考古学会に招介されましたが、以後住宅の開発が進んだため、現在、垂永神社裏山の境内地のみに、当時の面影が残されています。
遺跡の発見当時から現在まで、地元の研究者を中心に研究活動が行われてきましたが、昭和48年から51年にかけて、関西大学と吹田市によって発掘調査が行われました。
この調査では、竪穴住居社4棟が調査され、その内2棟には中央に炉が構えられていました。その他には、高床式建物跡・焼土坑・集石遺構等が調査されました。また、多数の弥生土器のほか、石鏃・鉄鏃・砥石・石槍等の遺物も出土しています。
垂水遺跡は、弥生時代中期後半からムラとしての現模か大きくなって、後期まで人々の生活が続いたことか明らかとなりました。
この時期は、中国の史書にみられるように、我が国ではムラの統合が進み、クニの成立をみる時期であり、この頃の大阪湾岸の動きを考える上でも注目される遺跡です。
弥生時代後期以後、古墳時代に至ると、垂水遺跡は衰退していたようであり、その頃には、南方に新たに垂水南遺跡が出現します。
昭和63年3月
吹田市教育委員会

社頭掲示板



垂水神社

当社は延喜式内大社にして、第10代崇神天皇の第一皇子にあたらせられる豊城入彦命を主祭神として仰ぎ奉り相殿に大己貴命、少彦名命の神々を奉斎する社である。
新撰姓氏録右京皇別によれば「孝徳天皇の御宇、天下旱魃し河井涸絶せるに際し豊城入彦命の数世の御孫阿利貞公高樋をつくりて垂水基岡の水を長柄豊崎宮に通じ御膳に供すれば天皇その功を賞し垂水公の姓を賜いて本社を掌らしめ給えり」とある。
これよりこの地方を垂水とよぶようになる。
山頂には弥生式住居跡が数基埋蔵されていることからしても垂水氏はそれ以前よりこの地に祖神を祀り御神徳を輝かしめ一大勢力を保っていたと考えられる。

社頭掲示板



垂水神社

垂水神社 名神大月次新嘗
垂水は多流美と訓べし○祭神詳ならず○垂水村に在す、○式三、(臨時祭))名神祭二百八十五座摂津國垂水神社一座、』祈雨祭神八十五座、(並大)云々、垂水社一座、
神位
続日本後紀(承和8年閏9月丁酉朔戊戌、奉授勲八等垂水神從五位下、余如故、(本書國名を脱す)三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授摂津國從五位上垂水神從四位下、
官幣
続日本後紀、承和3年6月癸卯、奉垂水社幣、祈雨也、同5年8月癸丑、奉幣垂水名神、以祈舞焉、同7年4月庚午、勅、頃者炎旱未幾、嘉苗殆枯、宜奉幣垂水社、祈甘雨、防風災焉、同8年4月己巳、勅、頃者時雨不降、農夫畷耕、如非祈祷、恐傷嘉苗、宜奉幣垂水神令祈甘雨兼防風災、同9年3月庚戌、是日遺使頒幣垂水社、同祈甘雨、』三代実録、貞観元年9月8日庚申、摂津國垂水神、遣使奉幣、為風雨祈焉、元慶元年6月14日癸未、奉幣垂水、祈甘雨也、
社職
日本紀神功皇后巻云、以依網吾彦男垂見、爲祭神主、○姓氏録、(右京皇別上)垂水公、豊城入彦命四世孫賀表乃眞稚命之後也、六世孫阿利真公、諡孝元天皇御世、天下旱魃河井涸絶、于時阿利真公、造作高樋以垂水岡基之水、令通水宮内供奉御膳、天皇美其功便賜垂水公姓掌垂水神社也、
連胤云、当社は八十島祭の一処也、式文住吉神社の條下に記す、見合すべし、

神社覈録



郷社 垂水神社

祭神 豊城入彦命 大己貴命 少彦名命 神社の創立は、新撰姓氏録に、孝徳天皇御世天下旱魃して水絶えし時、阿利眞公高樋を作りて垂水の岡基の水を宮内に通じたる功を嘉し、垂水公の姓を賜ひて垂水神社を掌らしむとあるに依るときは、少くとも共以前の事なるべく、かくて其祖神を祭りて同族の氏神とせしに起れるなるべし、降つて仁明天皇承和8年9月勲八等垂水神に從五位上を授け(続日本後紀)、清和天皇貞観元年正月從四位下に叙され、同年9月雨風の御祈に依て幣を奉り、陽成天皇元慶元年6月幣を奉りて雨を祈り給ひ〔三代實録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上及祈雨の幣帛に預り、(延喜式)一條天皇正暦5年4月中臣氏人を宣命使として疫疾災火の変を祈らしめ給ひたること史上に明かにして、神威赫々たる名社たりしが、中古兵火にかゝりて規模前日の如くならすと雖も、今猶ほ祈雨疫疾守護の神として地方の崇敬頗る厚し、明治6年郷社に定めらる、境内1759坪(官有地第一種)本殿、幣殿、拝殿、神饌所、社務所等の建物を備ふ社頭の神泉水滾々として恒に清し、因に記す地名辞書に、姓氏禄云右京皇別垂水公云々六世孫阿利眞公云々天皇賞其功便賜垂水公姓掌垂水神社也、案するに是は孝徳天皇長柄豊碕宮の事ならん云々、但し延喜式は八十島祭の條に垂水神二座とあるによれば、此神は住吉の別宮なる事想ふべし云々、此垂水は依綱垂見が特命を承りて祭りたるに因り、垂水祠起り其祠の地をも垂水とは呼ぶなりけりといへり、依綱垂見は神功皇后の朝の人なり。 神饌幣帛料供進明治40年2月11日

明治神社志料



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