為那都比古神社
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   【延喜式神名帳】爲那都比古神社 二坐 摂津国 豊島郡鎮座
          (旧地)爲那都比古神社【旧地】

   【現社名】為那都比古神社
   【住所】大阪府箕面市石丸2-10-1
       北緯34度50分22秒,東経135度29分50秒
   【祭神】爲那都比古大神 爲那都比売大神
        (合祀)天照皇大神 大山咋神 木花咲耶媛命 天児屋根命 火之迦具土神

   【例祭】4月15日 春季例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創立年代は詳かならず
       寛平4年(892)の頃創立か
       寛平年中(889−98)為那都比古神社と大宮神社に分かれた
       天正年中牛頭天王を称する
       明治5年村社
       明治40年2月神饌幣帛料供進社に指定
       明治40年6月大宮神社を合祀し再び同殿となる

   【関係氏族】為那都比古の一族
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「午頭天王」と称していた
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿・神樂所・神饌所・神庫・神輿庫・手水舎・社務所・納屋

   【境内社】

第4中学校の北に鎮座している。
この地域には「為那国」があった。この為那国を統治したのが、為那都比古の一族であった。
当社はこの鎮座地に為那都比古大神・為那都比売の夫婦二座が同殿にお祀りされていたが、寛平年間(889〜898)に別れて別殿となり、白島字土居の地に為那都比売大神をお祀りし、大宮神社と称した。
大宮神社の地は現在白島3丁目の薬師寺(医王山持宝院)の近くで、医王岩と称する巨石がある。参照:爲那都比古神社【旧地】
上記の説とは逆に、大宮寺が為那都比古神社の神宮寺であったことから大宮寺の地に為那都夫婦神を祀る神社があり、神宮寺創建とほぼ同時に、二座のうちの一座・イナツヒコが現在地に遷座したとする説もある。
明治40年(1907七年)に再び同殿となり合祀され現在にいたっている。
池田市の伊居太神社の末社として祀られている猪名津彦神社を式社とする説もある。


式内社為那都比古神社略誌

当社は社号が表明しているように紀元前後多くの小国家があったとき、当地方にも「為那国」があった。この為那国を統治したのが、為那都比古の一族であり、国の祭祀に用いたのが如意谷銅鐸で、氏族の守護神として祀られたのが当社である。したがって当社があり、銅鐸が出土した千里川上流の鎮座地こそ、この為那国で最も重要な地であった。その後地域は広まり、「日本書紀」仁徳天皇三十八年の条に猪名県が見えるように大化改新以前は、東は千里丘陵、西は猪名川流域におよぶ範囲で、現在の吹田、豊中、池田、箕面、河西、伊丹、尼崎市域を一体化した一つの行政単位であり、これを古くから支配していたのが、為那都比古の一族である。
吉備津彦、阿蘇津彦など、地名を負ったヒコというのは、原始的な姓であって三世紀から五世紀にかけて、そのあたりの首長に与えられた一種の称号として用いられ、これを称した豪族たちは、のちに国造や県主などの長官の官職についたものも多かった。猪名県が成立したとき、その首長である県主には為那都比古の後裔にあたるものが任ぜられ、彼らは氏族の祖神として代々お祀りをしてきたのである。 往昔、当社は、この鎮座地に為那都比古大神、為那都比売大神の夫婦神二座が同殿にお祀りされていたが、寛平年間(889年〜898年)に別れて別殿になり、白島字土居の地に為那都比売大神をお祀りして大宮神社と称した。しかし、この神社は明治40年(1907年)に再び同殿となり合祀され現在にいたっている。延長5年(927年)に左大臣藤原忠平らの編集による法制書「延喜式神名帳」にも当社の御名がみえる。
天正年間(1573年〜82年)、織田信長は高山右近に命じ、摂津一円の神社を破壊するにおよび織田信長の信仰厚い「牛頭天王」を祀っていると称し、その難を免れたのである。このように、当社は、摂津の国を代表する古社で古くから縁結びの神、土地守護の神として崇敬の念深く通称「菅野の大宮さん」と呼ばれている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




為那都比古神社

式内社
平安初期の延長5年(927)に集成された「延喜式」の巻第九・第十の神名帳に登載された当時の官社2861社(祭神数3132二座)のことで正式には延喜式内社という。この神名帳に登載された神社は、官社として国家より特別な待遇を受けていた。当地方の摂津国豊鳴郡は、五座でその内一座が当社である。
例祭神
主神 為那都比古大神
   為那都比売大神
合祀 天照星大神  応神天皇  大山咋神
   木花咲耶姫命 天児屋根命 火之迦具土神
   事平大神  市杵島姫命 速素盞烏命
鎮座地
箕面市石丸1丁目10番1号
当社の鎮座する萱野地方は、歴史の古い時代にはじまった。当社付近からは縄文時代の土器や石器が、また西1Kmの如意谷地区後背山地からは、三世紀後半の近畿式大形銅鐸が発見されており付近には古代から中世における遺跡も各所に所在している。
由緒
「日本書紀」仁徳天皇三十八年の条に猪名県が見えるように、大化改新以前は旧豊島郡・河辺郡(猪角川流域の東は吹田市北部、西は尼崎市北部に至る地域)を一体化したひとつの行政単位であり、これを古くから支配していたのが、為那都比古の一族である。
吉備津彦、伊勢津彦、阿蘇邦彦など、地名を負ったヒコというのは、原始的な姓であって三世紀から五世紀にかけて、そのあたりの首長に与えられた一種の称号として用いられ、これを称した豪族たちは、のちに国造や県主などの長官の官職についたものが多かった。猪名県が成立したとき、その首長である県主には為那都比古の後裔にあたるものが任ぜられ、彼らは氏族の祖神として為那都比古神社をお祀りしたのである。
また一方、応神天皇の時阿知使主は、その子の都知使主と十七県の人々を引き連れて、日本に渡来し倭漢氏の先祖となった。(応神妃二十年九月条)応神37年には、天皇の命令で異国から工女(ぬいめ)四人を迎え猪名港(今の唐船ケ渕)に機殿を建て布帛を織り機織裁縫の技術をわが国に伝える等したが、反正天皇の四年(四○九)に帰幽するが、猪名県での功績により比古の称号を与えられ翌年に当社に合祀されたと伝えられている。
往昔、当社は、この鎮座地に為那都比古大神、為那都比売大神の夫婦神一座が同段にお祀りされていたが、寛平年間(八八九〜八九八)に別れて別段になり、白島字道心ケ谷の地に為那都比売大神をお祀りし為那都比古神社(大宮)と称した。しかし、この神社を含む萱野地方の神社十社とその境内社五社が、国の指導により明治40年(1907)に当社に合祀され現在にいたっている。
天正年間(一五七三〜一五八二)織田信長は、高山右近に命じ摂津一円の神社を破壊するにおよび織田信長の信仰厚い「牛頭天王」を祀っていると称し、その難を免れたのである。 
このように当社は、長い歴史と由緒を持つ摂津の国を代表する古社で古くから縁結びの神、土地守護の神として崇敬の念深く通称「萱野の大官さん」と呼ばれてる。
境内地
往昔は、広大かつ幽遠な御境域であったが、その後半減せられたものの、現在、約一萬坪余りを有し、赤松、樫、椎などの大木が茂り、太古の神秘を偲ばれ森厳の気迫りて、自ら襟を正さしむものがある。
主な建造物
脚本殿(江戸時代前期)
脚本殿は昭和五十年に整備した新しい覆殿内にあり、一間仕流造・桧皮葺で正面に可唐轍風をつける。一部新しく補修された箇所もあるが、細部は当初のままで、組物、中備、妻飾などもよく残っており江戸時代前期の特徴を示している。正面の格子戸上部にある牡丹唐草の華麗な透形彫刻欄間は、はぼ左右対称であるが大柄で、この時期の特徴を示している。庇は面取角柱、型どおりの連三斗組を配するが、鹿頭貫は成も低く、虹梁形につくらず、下面に簡単な錫杖彫を施すのみのもので、江戸時代前期を示す渦文と若葉を彫るものである。
庇の木鼻は獣頭化しているが、低平な上品なもので頭上に皿斗をおき連三斗をうける。庇撃手抜を海老虹梁。身舎の頭貫と内法長押も繊細な感じで、身舎組物も庇と同じく連三斗組実肘木付である。妻飾は虹梁大瓶東で、大瓶束から絵様つきの花肘木を出し、斗をおいて連三斗と類似の構成で化粧棟木を支える。このように当社本殿は、学術上貴重なものであるが、現在は未指定である。建築面積は二・七五坪である。
御社殿
現在の社殿は、昭和五十年に一億数千万円の浄財をもって竣工した銅板葺総桧造りの建造物で、覆殿、祝詞殿、拝殿、神饌所、祭器具庫よりなる。
その他の建物
神門、斉館、神輿庫、倉庫、手水舎、社務所、社宅、納舎
境内社天満宮
御祭神 菅原道真公
昭和五十四年竣工、銅板葺総桧造の建造物である。建築面積は三坪である。
社標石
社頭にある「為那都比古社」と刻された社標石は、江戸中期の儒者並河誠所(1668〜1738)が、いまだわが国に地誌といえるものがないのを嘆き、享保年間に王畿内を踏査し、「摂津志」を含む畿内の部六十一巻を著し、これを幕府に献ずるとともに寺社奉行大岡越前守忠相に式内在二十社の社標石建立を上申し、その認可と扶持米の下附を得て元文二年(1737)に建立されたものである。社標石は、万八寸、高さ三尺、台石二段、側面に村名と台石に「菅廣房建」と彫るという形式になっている。菅廣房は、大阪の人で山口屋伊兵衛と称したという以外その事績はまったく不明の人であるが、並河誠所のこの式内在建碑のことについてはずい分尽力した人で元文元年(一七三六)事業の完成を見ずして亡くなったが、その志をあわれんだ並河誠所が、幕府に請うて、石碑の台石に「菅廣房建」の四字がきざまれたのである。
主な例祭日
一月一日 歳旦祭・三日元始祭 十五日成人祭
二月 節分の日 節分祭・厄除延寿祭 十一日建国祭
三月 春分の日・春分祭
四月十五日 春季例祭
五月三日 憲法記念祭 五日子供祭
六月三十日 大祓祭・夏越祭
八月十五日 戦没者慰霊祭
九月十五日 敬老祭 秋分の日秋分祭
十月十日 体育祭 十四日秋季例大祭
十一月三日 文化祭 十五日七・五・三祭 二十三日勤労感謝祭・新穀感謝察
十二月二十日 御媒払祭 二十三日天皇誕生祭・ 三十一日大祓祭・除夜祭・謝火祭

社頭掲示板



為那都比古神社社記

御祭神
爲那都比古大神 爲那都比売大神
合祀
天照皇大神 大山咋神 木花咲耶媛命 天児屋根命 火之迦具土神 菅原道真公
御由来
当神社は摂津国の古社で今を去る1700年以前にあった部族国家「為那国」の中心地で為那国を統括した為那氏族の守護神として祀られたと伝承され日本紀の仁徳天皇38年の条に代々氏神として奉ったと記され、醍醐天皇の延長5年に左大臣藤原忠平等により撰出された法制書「延喜式神名帳」に官幣を奉った神社」として御名が見える。往古より縁結びの神土地守護の神として崇敬篤く通称「萱野の大宮」として著名である。明治40年旧萱野村10ヶ村の産土神十社が当神社に合祀さる。
昭和57年10月吉日
為那都比古神社

社頭掲示板




爲那都比古神社 二座

爲那都比古は假字也、和名鈔、(郷名部)河辺郡爲奈、○祭神明か也○萱野谷白島村に在す、今天王と称す、(摂津志)
日本紀、宜化天皇元年3月壬寅朔己酉、詔曰、上殖葉皇子、(亦名椀子)是丹比公、偉那公、凡二姓之先也、火焔皇子、是椎田君之先也、」古事記、(宣化段)火穗王者、志比陀君之祖、恵波王者、偉那君、多治比君之祖也、』旧事紀、(帝皇本紀)上殖葉皇子、丹比椎田君祖、火焔皇子、偉那君祖、』姓氏録、(右京皇別、摂津國皇別、)爲奈真人、宣化天皇皇子火焔王之後也、(此両説詳ならず)

神社覈録



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