伊射奈岐神社
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   【延喜式神名帳】伊射奈岐神社 二座(並大 月次/新嘗) 摂津国 豊島郡鎮座

   【現社名】伊射奈岐神社
   【住所】大阪府吹田市山田東2-3-1
       北緯34度47分46秒,東経135度31分46秒
   【祭神】伊射奈美命 (配祀)天児屋根命 手力雄命 天忍熊根命 蛭子命
   【例祭】10月9日 秋季例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】仁寿2年(852)に小川谷より高庭山に移し五社の宮と改称した
       貞観元年(859)従五位上『三代実録』
       康治元年(1142)藤原忠道が当地を含む垂水東牧を奈良春日神社に寄進
       天文2年(1533)一向一揆掃討で焼亡
       寛永16年(1639)造営落成。正遷宮
       元文2年(1737)古に復して伊射奈岐神社と改称した
       明治6年(1873)郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地は小川谷
        仁寿2年(852)に小川谷より高庭山に移し五社の宮と改称した

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「春日社」と称していた
   【公式HP】 伊射奈岐神社
   【社殿】本殿流造
       神饌所・神輿庫・御道具納家・社務所・氏子集会所

   【境内社】八幡宮・天満宮・八王子社・稻荷社・弁財天

川の南岸近くに鎮座。
雄略の代に伊勢神宮の斎宮である倭姫の教示により、岡本豊足彦が5柱の皇大神を奉祀すべき地を求めて、ついにこの地に祀ると伝。
当社を姫宮と称し、佐井原の社を奥宮と称した。


由緒

当社は延喜式内社で、延喜式神明帳に「摂津国島下郡、伊射奈岐神社二座云々」とあり一座がこの神社であって、千里丘陵の中間で万国博会場になった地域に隣接する高庭山に鎮座している。爾来、皇大神御霊と共に内裏に奉斎されていた豊受大御神の御霊が崇神天皇の御宇、皇居を離れさせられ、後に丹波国与謝郡(現在福知山市)の比治真名井に遷し奉られたが人皇二十二代雄略天皇即位22年、皇大神の御神誨により現在の伊勢市山田、高倉山麓の山田ケ原に遷座し奉られたとき、伊勢斎宮皇女倭姫の御示教により、大佐々之命が、五柱の神を奉祀するべき霊地を諸国にもとめ、ついにこの山田の地に奉祀せられたと云う。又山田と云う地名がこの様な処から山田原と称し、伊勢山田から名を移したのであると伝えられている。俗に姫神社とも称し、貞観元年正月、従五位上を授けられ(三代実録、貞観元年正月の条に「27日甲申京畿七道諸神進階及新叙惣二六七社云々、奉授摂津国従五位、伊射奈岐神従五位上」)同15年、社宮と改称されたと云う。延喜の制に小社に列し、明治6年、郷社、祈年月次新嘗の案上に預った名祠である。俗に五社宮、姫宮とも称し山田町、千里丘、千里ニュータウンを含む産土大神である。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




伊射奈岐神社略誌

延喜式内大社[えんぎしきないたいしゃ] 伊射奈岐[いざなぎ]神社
千里の産土神[うぶすながみ](通称 千里佐井寺伊射奈岐神社)
鎮座地 吹田市佐井寺[すいたしさいでら]1丁目18番26号(古地名佐井が原)
御祭神
伊射奈岐大神[いざなぎのおおかみ]:主神
八幡大神[はちまんのおおかみ]:相殿[あいどの]
素戔鳴大神[すさのおのおおかみ]:相殿
末社
大将軍[たいしょうぐん]社(水神社) 境内
  御祭神:天之水分神[あまのみくまりのかみ]
稲荷[いなり]社 境内
  御祭神:豊受姫神[とようけひめのかみ]
摂社
愛宕[あたご]神社 境外、本社西方山上
  御祭神:火之加具土神[ひのかぐつちのかみ]
由緒
伊射奈岐大神 21代雄略天皇22年(478)9月豊受大神[とようけおおかみ](伊勢外宮)を丹波国与謝郡真奈井[よさのこおりまない]の原より伊勢国渡会郡[わたらいのこおり]山田の原に御遷座の翌年(479)天照大御神の御神託を受けた伊勢斎宮皇女倭姫命[やまとひめのみこと]の御教により、9月16日この佐井が原に伊射奈岐、伊射奈美両大神をお祭りしたのが、本神社の始まりとされている。
清和天皇貞観[じょうがん]元年(859)正月27日「伊射奈岐神従五位上を授かった」と日本三代実録に記されている。
貞観から延喜[えんぎ]年間に伊射奈美大神を東北の地(山田伊射奈岐神社)に御遷座、これを姫宮と称し、本社を奥宮[おくのみや]と称した。
醍醐天皇延喜年間(910前後)の延喜式神名帳[じんみょうちょう]には、(千里と山田の)「伊射奈岐神社二座は共に大社」とあり、官幣社[かんぺいしゃ]として当時格式が高かった。
応仁の乱(1467)より元和[げんな](1615)にかけて、兵火にかかること多く、天文[てんぶん]2年(1533)村と共に全焼し、当神社は一時に衰微したが、江戸時代になってお社を造りかえ(正保4年)、正面鳥居を建立(寛文12年)更に享和3年(1803)に建て替えしたが、平成4年(1992)に現社殿を新に造営する。内部の御神殿は享和3年のもので柿葺[こけらぶき]三間社[さんげんしゃ]流造[ながれづくり]。それを覆う本社殿は権現造[ごんげんづくり](奥より本殿、幣殿[へいでん]、拝殿)である。
 旧社殿
御神徳
 伊射奈岐大神は、皇祖天照大御神の御親で、記紀の「国生み神話」にあるように、大八洲[おおやしま]即ち日本の国土を創生された神であり、多くの神々、海および山川草木[さんせんそうもく]等、万物をお生みになったとされる。
伊射奈岐大神は、縁結び、延寿(寿命乞い)家内安全、諸願成就、除疫、厄除、招福、開運の神であらせられるので、古来遠近の崇敬を集め、お祭りしてから千五百年絶えることなく現在に至っている。当境内は巨木が鬱蒼として四季折々の風情があり、神さびた神苑に歩を運べば、おのずから神のご加護を身に感じる。
 伊射奈岐大神の進まれた道筋には、淡路島の伊弉諾[いざなぎ]神宮、千里(当地と山田)の伊射奈岐神社、近江の多賀大社(伊邪那岐[いざなぎ]二神)があり、この三社の位地が直線上にあって、ほぼ中間に本神社があるのも不思議である。また阿波国[あわのくに]の伊佐奈美[いざなみ]神社も同一線上にある(末尾参考図)。
八幡大神 主神は応神天皇(誉田別尊[ほんだわけのみこと])。ほかに比売大神[ひめおおかみ]と神功皇后(息長帯比売命[おきながたらしひめのみこと])を祭るが、総称して、古くは八幡大菩薩と称え、今は八幡大神と申し上げる。源氏の氏神。文治3年(1187)に、源頼朝が、佐井寺地域を含む山田荘を京都六条若宮八幡宮に寄進したことにより本社に合祀される。武の神であり厄除けの神として知られる。
素戔鳴尊 中世、織田信長が神社仏閣、破壊のことあり、それを免れるため織田氏の産土神[うぶすながみ]である牛頭天王[ごずてんのう]をお祭りしたのが始まりである。後に、明治の神仏分離により牛頭から素戔鳴(日本書紀にこの字で記されている)の名称となる。伊射奈岐大神の御子で、除疫の神であられる。
天之水分神 水神(竜神、おろち)であられる。弥生時代は、山の神・田の神として崇められた。加えて当丘陵地は旱[ひでり]が多く古来、佐井の清水を祭り稲作に必要な雨、水を祈願していた。社名の大将軍は元来方位の神で王城鎮護の神であるが、そのいわれは謎が多い。
豊受姫神 伊勢外宮の豊受大神と同じ神で、「豊」はゆたかなみのりで「受」は食物のこと。伏見稲荷と同じように五穀豊作、商売繁盛、財富蓄積の神であられる。イナリは稲が成ること。
火之加具土神 火の神、鎮火の神であられる。この神を祭る愛宕神社の地は古くは行基山[ぎょうきやま]と称し、今は一般に愛宕山[あたごさん]と呼んでいる。集落の乾[いぬい](北西)の方、一番高い所に祭るのを原則とする。ここでもそうなっている。神仏分離までは地蔵菩薩と習合していた。吹田市内の他の愛宕山では神仏習合の名残を止めるが、当社は残っていない。
 ただ祭日が愛宕盆とも言われ8月24四日、地蔵さんの縁日に行われる。
伊射奈岐神社鎮座の歴史的背景
国生み神話と当神社(大阪府史第二巻等参考)
国生み神話のイザナギの神は、大阪湾沿岸地方で信仰されていた神である。イザナギとその妻イザナミをまつる古代の神社(式内社)や、その伝承地は、淡路島を中心にそれを取りまくように分布し、多くは海辺にある。古代の水軍でもある海辺の漁民集団(海人族[あまぞく]・海部[あまべ])たちの間で信仰されていたものと思われる。
イザナギは淡路島に島名を冠した式内大社「淡路伊佐奈伎神社」にまつられており、国生み神話もその原型はこの神による淡路の島造り神話であり、したがって瀬戸内海東部沿岸に分布するイザナギ神社もまた、イザナギの神をまつるものである。
大阪湾沿岸の府下には、イザナギの神を祭る式内神社が二社ある。摂津国島下郡[しましものこおり](当地)の式内大社「伊射奈岐神社二座」と和泉国和泉郡[いずみのくにいずみのこおり]「淡路神社」である。島下郡の社が二座となっているのは妃のイザナミの神もあわせて祭るからである。
イザナギの神と八十嶋祭[やそしまのまつり](同参考)(末尾備考)
イザナギ・イザナミの神による大八洲[おおやしま]生成の神話が王権神話へ発展し、宮廷に取り入れられ八十嶋祭に結びつく。
八十嶋祭は、文徳天皇の時が史料の所見(八五〇)だが、平安時代には、天皇即位の大嘗祭[おおにえのまつり]の翌年に、新しい天皇の衣の箱を持参した女官が、難波津[なにわづ]に下向して八十嶋の神々をまつり、イザナギ・イザナミの神の創生した大八洲の国魂[くにたま]を御衣に付着させこれを持ち帰り、即位した天皇が身に着けることによって、国土の統治権を保証する呪術(鎮魂祭[たましずめのまつり])であった。
その起源は古く四世紀後半から五世紀にかけて巨大な力を持った応神、仁徳の難波[なにわ](河内[かわち])王朝にまでさかのぼる。最初は天皇自らこれを行ったと考えられる。八十嶋祭はこの後、鎌倉時代初め後堀河天皇を最後(1224)に廃絶した。
伊射奈岐神社と伊勢斎宮(倭姫命)と禊[みそぎ]
神道五部書の一つ「倭姫命世記[やまとひめのみことせいき]」等によると、雄略天皇22年に豊受大神(現伊勢外宮)が丹波から伊勢に遷座されたとある。
この年、斎宮倭姫命が、天照大御神より「わが御親 伊射奈岐 伊射奈美 両大神を斎[いわ]い祭るべし」との御神託を授かったと伝わっている。
翌23年8月天皇崩御に伴い斎宮は解任され難波の海で解斎[げさい]の禊を行った後、大和泊瀬[はつせ]朝倉宮に還ることになる。このとき当地に伊射奈岐伊射奈美両大神をお祭りしたのが当神社のはじまりと言われている。

斎宮とは、天皇即位の時、命により未婚の内親王が祓[はらい]禊の後、斎宮となって伊勢に出向し天照大御神に仕えた最高の巫女である。皇位継承等事故があれば伊勢から、難波の海まで来て三ヶ所で禊し解斎して帰京した。この習わしは後醍醐天皇の祥子[しょうし]内親王の時まで続いたが戦乱のため廃絶した。
南吹田の五反島(遺跡)は出土した祭器などから、八十嶋祭の場であったと言われている。また同所が、斎宮の禊が行われた場所(難波の海)の一つであったとも考えられる。
禊の故事を辿ると、神話(記紀)に、イザナギの神が身のけがれを洗いすてるために「筑紫の日向の橘の小戸[おと]の阿波岐原[あわぎはら]に禊ぎ祓いされた」と伝えられているのが、最古であろう。
備考:八十嶋の「嶋」は最近まで当地氏子組織の名称「奥之嶋」「谷之嶋」「西之嶋」に受け継がれていた。
補記
中世より近世(江戸)にかけて本神社が「春日大明神」とされていた事情については、康治元年(1142)五摂家の祖藤原忠道が当地垂水[たるみ]東牧[ひがしまき]を氏神の奈良の春日神社へ寄進(年貢分)し、春日神社領となり春日明神を合わせ祭ったためである。
加えて、織田信長が天照大御神、春日明神、八幡神、牛頭天王を祭る社は焼き討ちしなかったので、免れんがため伊射奈岐神を隠し、「伊射奈岐神社」が記録から消えたとも考えられる。
後に、享保の頃、儒者並河誠所[なみかわせいしょ]が幕命により五畿内志(摂津志はその一つ)を著述した際、当神社を元の「伊射奈岐神社」に正した。元文元年(1736)9月、時の寺社奉行大岡越前守忠相の認可を得、元文2年「伊射奈岐神社一座」の石碑を建て顕彰する。
須恵器[すえき]窯跡。本社殿の裏手にあり、市教育委員会の標示板設置。
平成四年一月吉日

由緒書



伊射奈岐神社

延喜式内大社
千里 佐井寺 伊射奈岐神社
祭神
八幡大神(相殿)
伊射奈岐大神(主神)
素盞鳴大神(相殿)
祭儀
春祭 五月五日
例祭 十月十日
月次祭 毎月一日、十五日
由緒
當社は延喜式神名帳に登載されている伊射奈岐神社二座の御社の一座がこの神社である。
人皇第21代雄略天皇22年(478)9月の豊受大神を丹波國与謝郡真奈井の原より伊勢国渡会郡山田の原に御遷座の翌年(479)9月天照大御神の御神託を受けた伊勢斎宮皇女倭姫のお教によりこの佐井が原に伊射奈岐、伊射奈美両大神をお祭りしたのが、當社の始まりとされている。
清和天皇貞観元年(859)正月27日「伊射奈岐神從五位上を授かつた」と日本三代実録に記されている。
貞観から延喜年間に伊射奈美大神を東北の地にご遷座、これを姫宮と称し、本社を奥宮と称した。
現在は佐井寺、佐竹台、津雲台、桃山台、竹見台、五月が丘、千里山全域などの鎮守の神である

社頭掲示板




伊射奈岐神社

俗に姫神社とも称し、貞観元年正月従五位上を授けられ(三代実録、諦観元年正月の条に「二十七日申京畿七道諸神進級及神叙惣二六七社云々、奉授摂津国従五位、伊射奈岐神従五位上」)同15年社宮とされたと云う。
延喜の制に大社に列し、明治6年郷社、祈年月次新嘗の安上に預かった名祠である。
俗に五社宮、姫宮とも称し、旧山田荘五か村、上村、中村、別所村、小川村、下村、千里丘、千里ニュータウンを含む産土大神である。

公式HP



伊射奈岐神社 二座

伊射奈岐は假字也○祭神伊弉諾尊、伊弉册尊、〇一座山田荘小川村に在す、今五社と称す、
一座同荘佐井寺村に在す、今春日と称す(摂津志)
類社
大和國添下郡伊射奈岐神社の條見合すべし
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授摂津國從五位下伊射奈岐神從五位上、

神社覈録



郷社 伊射奈岐神社

祭神 伊射奈岐命
相殿 天照皇大神 天児屋根命 天手力雄命
   天忍熊根命 蛭子命
伝へいふ、雄略天皇22年9月、大佐々命、丹波国與謝郡真名井原より豊受大神を伊勢山田原に遷しまつりし時、倭姫命の神教に依りて此地へ奉齊せしなりと、清和天皇貞観元年正月27日甲申從五位下より従五位上に進ませられ、(三代実録)醍醐天皇延喜の制式内の小社に列し、島下郡十七座の内に伽へられ(式には伊射奈岐神社二座と載せられ、一座は旧山田庄佐井寺村に在り、(神社覈録、神祇志料)神威頗る厳かなりしが、正親町天皇天正年間の兵燹に罹りてより盛大古の如くならさるに至れりといふ、俗に五社と称し、山田庄五ケ村(上村、中村、下村、別所村、小川村)の産土神たり、明治6年郷社に列す、境内1066坪(官有地第一種)本殿、雨覆、拝殿、神輿庫等の建物を備ふ。
神饌幣帛料供進明治40年2月11日

明治神社志料



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