171号線から少し北に入った住宅地に鎮座する。 当地は三島県主一族の地であり、三島県主が祖神を祀るとする説がある。 平清盛の妹で後白河天皇の中宮・健春門院が皇子誕生を当社に祈願したところ高倉天皇が生誕され、これを祝して京都に三島神社(五条坂)を造営された。 |
神社明細書 島上郡阿武村大字赤大路字鴨林 村社鴨神社 祭神 大山祇神 由緒 右旧記も無御座候共先前より申伝祭神は大山祇命御鎮座地所は故島下郡と称し(該村も往古は島下郡なり徳川氏の代の島上郡編入の由申伝)且島下郡接し藍野、御陵より凡四町巽方に有之三島鴨神社とも俗に五位の鴨社とも又三島神とも申伝来候往古は不小社候哉最も往古は社地凡一町五反余も有之候処中古社地五版余□は社地の左右三丁凡一町計地の山林に相成候処猶又享保以来該山林新田御高入に相成候且地前の田地一円字鴨林と称す唱来候該書は無御座候共唯先前より申伝の儘申上候事。 応仁の乱に戦禍に逢い再建され大正15年拝殿改築昭和12年本殿改築されたるも拝殿本殿共に老朽したる為昭和46年本殿拝殿及社務所新築せり。 現在境内総坪数1200坪余となれり。 社頭掲示板 |
鴨神社 ・鴨族創建の神社 赤大路町の『鴨神社』を創建したのは私たちのご先祖である鴨氏族(以下、通称 「鴨族」と記します)です。その鴨族の先住民族は、紀元 前後に奈良県の葛城山にあ る高鴨神社を祀った鴨族(注1)でした。その一族が我が摂津国嶋下郡(注2)方面へ勢力を伸ばしてきたのです。 その時期は何時でしょうか...。鴨族が神武天皇とともに卑弥呼(注3)を打倒した、少なくとも3世紀中期より前だと思われます。その当時の関西を鳥瞰しますと、今の大阪城がある位置は上町台地と言われ る高台であって、その西側 はすぐ海だったのです。その内陸部に5世紀頃までは 大きな河内湖があって、その湖は奈良から旧大和川を 始め、桂川、木津川、芥川、安威川、が注ぐ淀川とも連なり、その川の流れに沿って葛城の鴨族が、あるいは朝鮮半島から渡来した鴨族が直接、赤大路へ勢力を伸ばし、鴨林(注4)を拠点に拡大し始めたと思われます。 (注1) 鴨族:葛城の鴨一族は広く各地に広がりましたが、4世紀中頃、近畿地方で成立した大和朝廷によって滅亡しました。 (注2) 摂津国嶋下郡:7世紀後期の律令制下に入ってから三島郡が豊嶋郡・嶋上郡・嶋下郡に分かれて成立。「続日本書紀」の和銅4年(711)に「摂津国嶋下郡、嶋上郡」とあるのが郡名の初見。 (注3) 卑弥呼:弥生時代後期の倭国女王で、没年248年頃。 (注4) 鴨林:明治中期まで残っていた字名で鴨神社の住所は「阿武野村大字赤大路字鴨林」でした。 ・摂津・三島の元氏神 その後、4世紀末の仁徳天皇(在位393?427)の時代に百済から武寧(ぶねい)王の斯麻(しま)王、つまり御嶋(三島)の神が渡来し(注1)、「津」つまり、現在の津之江や三島江の方から北へと勢力を伸ばしてきたのです。その間、三嶋族は先住勢力の鴨族と共生する時代、があったと思います。その後三嶋氏は勢力を伸ばして摂津の国の県主(注2)となり「鴨神社」と合祀して「三島鴨神社」とし、摂津国(注4)の氏神として強大な支配力をつけていったのです。その力に押されるようにして、鴨一族は継体天皇(507即位?531没)以後、滋賀や福井などへ勢力を広げる布石を打ち始めたのです。 ですから、当社の原始は鴨族を祀る「鴨神社」、後に三嶋一族の「三島鴨神社」となり、現在「鴨神社」または「三島鴨神社」と称しているわけです。一方、三島江の「三島鴨神社」は元々「三島神社」と称していたと言われていますが、鴨族の衰退とともに何らかの事情で赤大路の「三烏鴨神社」の名称、がそのまま移されたのです。式内社(注3)として「摂津国嶋下郡の三島鴨神社」と記されているのは嶋上郡に位置した三島江の「三島鴨神社」ではなく当社の「鴨神社」なのです。式内社は地形的に安定した場所にあることが多く、三島江の「三島鴨神社」と比較すると当地は海抜26mに位置し、5000年以来地形が変わらない安定した場所です。安威川よりも、女瀬川よりも地形が高く、特に赤大路は縦に長い所で川に浸蝕されることがなかった安定した土地でした。 また今なお、赤大路の鴨神社は「上の宮」と一言われ、三島江の三島鴨神社は「下の宮」と称されています。三島鴨神社の祭神は「大山積(祇)大神」(おおやまつみのおおかみ)と「事代主神」ことしろぬしのかみ。当社の祭神は鴨氏の先祖の「鴨御祖大神」と「大山積(祇)大神」、その両親である「伊弉諾尊」、「伊弉冉尊」。 「事代主神」は大国主の子で、当社創建時のご祭神は初代神代の3番目「鴨御祖大神」ですから、三島鴨神社は鴨神社の後で招かれた渡来神なのです。 (注1) 「伊予風土記」に「百済の国より渡り来まして、津の国の御島に坐しき」とあります。 (注2) 県主:大和朝廷の職掌を示す姓(かばね)で、県主は忠誠度が高く王権の代権者と考えられています。 (注3) 式内社:延長5年(927)の「延喜式」に記載された神社。 「摂津国嶋下郡の三島鴨神社」と記載があります。 (注4) 摂津の国の三島郡: 豊嶋郡(現在の豊中、池田) 嶋下郡(現在の箕面、吹田、茨木、摂津) 嶋上郡(現在の高槻、島上町) ・発掘調査の地質 鴨神社の南東に隣接するマンション建設に伴って平成12年に行われた発掘調査(注1)では、720年代の赤土の地層から柱か柵の跡が発掘されました。赤い土層でしたから赤大路の名前の由来に意昧があるのかもしれません。取手の付いた土器も出土しています。本殿は昭和43年に現在の鉄筋に建て替えたのですが、その時発掘調査しなかったのが残念です。 しかし、少なくとも奈良時代・720年以前の神社ということが証明されたことになります。 昔の赤大路の領域はかなり広く、東は富田に接し、北の「宮田」は鴨神社が支配する田で、鴨神社の「宮」の田と云われていました。また、古老の話によると茨木市東太田の新田地区は昔々は「赤大路新田」、つまり赤大路の領域だったのです。そして、茶臼山藍野陵がある茨木市太田近くには鴨族とゆかりの深い太田連がいましたが、この両勢力は京都においては上賀茂神社と太田神社との関係で、両神社が並び建っていることも興味深いことです。 さらに想像力を豊かにすれば、地図上で三嶋江の「三島鴨神社」と赤大路の「鴨神社」を結び、それを藤原鎌足(669年没)の墓と言われている「阿武山」と結び、さらにそれを延長すると朝鮮半島の「百済」へとつながるのも単なる偶然とは云えないものがあるのではないでしょうか。また阿武山は聖なる山で、その山麓に支配層が住み、総持寺の周辺に民衆が住んでいたと思われます。と言うのも、総持寺古墳群の周辺からは今でも地鎮祭の時、面白いように生活土器が出てくるからです。 (注1) 埋蔵文化センターの話では「柱状の穴は狭い範囲の調査のため、神社跡と特定はできないが時代は古く奈良時代」と言います。 公式HP |