走落神社
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   【延喜式神名帳】走落神社 鍬靫 摂津国 島下郡鎮座

   【現社名】走落神社
   【住所】大阪府豊能郡豊能町木代1556番地
       北緯34度55分7秒,東経135度29分57秒
   【祭神】天照皇大神 建速素盞嗚尊 少彦名命 稻倉魂神 五十猛大神
       水波能売神 白山姫神 応神天皇 天武天皇 武内宿禰命
       『神名帳考証』「旧事記云、速飄命」
       『神社覈録』「祭神詳ならず」

   【例祭】10月15日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】大永3年(1528)式内社走落神社から小玉神社、走湯天王社が建立
       明治7年村社
       明治40年三社も再び同殿内に鎭座

   【関係氏族】
   【鎮座地】この地は小玉神社の地である
       木代庄大図村に会ったとするが不詳

   【祭祀対象】冷泉か、温泉
   【祭祀】江戸時代は「藤森神社」と称していた
   【社殿】本殿三間社流造
       幣殿・拝殿・手水舎・社務所・祭器庫・地車庫

   【境内社】

町立福祉センタの西隣に鎮座。
大永3年(1528)に式内社走落神社から分離して、小玉神社、走湯天王社が建立され、更に走落神社も後に藤森神社と改められた。
この地は小玉神社の地であり、明治40年の村内神社の全部の合併により、かつて分離したこの三社も再び同殿内に鎭座せられることになつた、この地に藤森神社の本殿を移し、社名も「走落神社」と改称。
小玉神社は木代庄大図村鎭座の式内社走落神社(後に藤森神社と改める)の相殿に奉祀していた天照大神を木代村に移し一社を建立して小玉宮と称したのに始まる。
伝承によると分離した小玉神社へ再び合祀されたようであるから、本来の式内社ヘの合祀ではなく、社名のみを走落神社に復活したもののようである。


由緒

走落神社はもと小玉神社と称した。明治40年、当時の東能勢村内にあった九社の神社を小玉神社に合併して社名を走落神社としたのである。明治39年8月、勅令として神社合併整理が行われた。伝承によると木代庄は平安時代末の康治2年(1142年)6月20日、貝川三位長乗が一族36人を率いて、都より来り開発の鍬を打ち込んだのが始まりと伝えられている。そして木代、切畑、大円という三村を開発した。この時の三ヶ荘の氏神として、木代庄大円村に延喜式内走落神社を創立したと伝えられている。戦国時代、織田信長の兵火にかかるのを恐れてか、この頃、走落神社の御祭神を分散して相殿としてお祀していた天照大神を木代村に移して「小玉宮」を建立し、少名彦名命を切畑村に移して「走湯天王社」を建立し、元の走落神社は社名を改めて、鎮座地の字名“藤の森”を取って「藤森神社」とし建速素盞嗚命をお祀りしたという。そこで、明治の神社合併で村内十社の神社が合併されたが、その中で社格の高く、もと御同殿にお祀り申し上げていた神様が再び、同殿、同床に鎮座されたことから社名を「走落神社」とした。「走落」の社名と走落神社周辺の地名等から走落神社創生当時、その近辺に病気に効験のある冷泉か、温泉が湧出しており、湯治に集まった人等の尊崇を集めた神社ではないかと思うのである。先ず「ハシル」は、万葉集でも「岩走る垂水の」等、水の流れる形容に使われており、この様な事から「水が流れ落ちている所にある神社」ということが考えられる。又、走落神社が三社に分散した時の一社に「走湯天王社」があり、この社名は“湯が迸り出ていた”と解することが出来る。
現在の走落神社の御本殿は、藤森神社の御本殿を移したものであるが、三間社流造の立派な建築である。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




木代走落神社石燈籠

この燈籠は、明治40年(1907)の神社合併のとき、余野にあった天武天皇宮から移されたものである。
銘文は、「大婦天皇御宝前」「正徳元年(1711)9月吉日」とある。
天武天皇宮は、柏尾宮、大武天皇宮とも呼ばれていたので、大武を大婦の字にあてて表したと思われる。
当走落神社は、「延喜式」神名帳の島下郡17社の内に記される式内社で、もとは切畑に鎮座したと伝えられる。
現在の鎮座地は、もと走落神社の相殿神であった夫照大神を分祀して祀った小玉神社のあつたところである。
平成5年11月
豊能町教育委員会

社頭掲示板



走落神社

走落神社 鍬靱
走落は波志里於知ど訓べし○祭神詳ならず○今能勢郡切畑村に在す、走揚天王と称す、
類社
近江國伊香郡走落神社

神社覈録



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