三宅小学校の北にに隣接。
創建の年代は詳かでないが、井於連が氏神として崇敬した社ではないかと思われる。 井於は井の辺と訓み、井のほとりという意味であつて、古代人の生活に欠くことの出来ない水源の井は重要なものである。そこでここはもと素朴な農業神である水の神を祭つていたのではないかと推察される。 井於神社は、享徳年中(1452−54)もと宇野辺村から現在地(三宅村大字)藏垣内に遷座した。 旧鎮座地名・宇野辺(ウノベ)とは、当社名・井於(イノベ)が訛ったものというが、宇野辺がどの辺りにあったかは不明。 |
由緒 創建年代は定かではないが、平安時代の初期(延長5年−西暦927年)に編纂された延喜式神名帖に「ヰノヘノ神社」と記載されていることから、千年以上の昔に鎮座されたものである。 当社は、もとは三宅村宇野辺に鎮座し、「井於連」が氏神として崇敬した井の神(即ち、水の神・泉の神)で、三宅郷の田畠の潅漑用水を守らせ給う神として、篤い信仰が捧げられていた。昔は、旱魃になると氏子の若衆が、藁で龍をつくりそれをかついで村中を巡り、終わって池中に投じて雨乞をしたと伝えられる。宇野辺という地名は、「イノヘ」の転訛したものと云われている。 当社が、現在の場所に遷座されたのは、享徳年中(1452年−1454年)のことであり、その後、永正年中(1504年−1520年)に三宅城城主・三宅出羽守国村公が、相殿に天児屋根命を勧請したと伝えられている。又、素盞嗚命を祀るようになったのは、織田信長の頃に兵火で焼かれるのを免れる為で、疫神牛頭天王社とすれば、牛頭天王を氏神とする信長は、これに手を出さないので祭神としたと伝えられている。 江戸時代には、主祭神・素盞嗚命、相殿・天児屋根命、菅原道真公の三社を合わせて「三所明神」と称していた。明治5年に郷社に列し、同43年9月28日、宇野辺の八幡神社(応神天皇)、鶴野の皇大神社(天照皇大神)、丑寅の皇大神社(天照皇大神)を境内に合祀し、今日まで三宅郷の産土神として篤い信仰を集めている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
井於神社 井於神社の創建年代は明らかでありませんが、平安初期、延長5年(西歴927年)に編纂された延喜式神名帳に「ヰノヘノ神社」と記載されていることから、千余年以上の昔に御鎮座されました。 当社は元々三宅村宇野辺に鎮座し、「井於連」が氏神として崇敬した井の神(水・泉の神)で、三宅郷の田畑の灌漑用水を守らせ給う神として、篤い信仰が捧げられておりました。その昔、雨が降らず干魃になると氏子の若衆が藁で龍を作り、雨乞いの祈願を行なった後、龍を担いで村中を練り歩き、池中に投じることで水の神の恩恵に感謝していたと伝えられています。 当社が現在の場所(茨木市蔵垣内)に遷座されたのは、享徳年中(1452〜1454年)のことであり、永正年中(1504〜1520年)に三宅城城主・三宅出羽守国村公により、天児屋根命が勧請され当社の相殿におまつりされたとあります。又、素盞鳴命を祀るようになったのは、織田信長の頃、社が兵火で焼かれるのを免れるために、信長公が崇敬しておりました素盞鳴命をおまつりしたと伝えられ、その後当社の祭神とし、勧請されました。江戸時代には、主祭神、相殿(二座)の三座の大~様を合わせて「三所明神」と称されていました。明治5年には郷社に列し、同43年9月28日、宇野辺の八幡神社、鶴野の皇大神社、丑寅の皇大神社が境内に合祀され、今日まで三宅の郷の産土神として、御鎮座されております。また、親しみを込め「三宅神社」と称されることもあり、篤い信仰を集めております。 公式HP |
井於神社 井於は為乃倍と訓べし○祭神井於連氏神歟○宇野辺村に在す、今三所明神と称す、(摂陽群談に、井於モ宇野辺ニ転スと云り、尤訛れるなるべし、) 続日本紀、天平神護2年4月丁未、摂津國人正七位下甘尾雪麻呂賜姓井於連、 神社覈録 |