梅花女子大学の西隣の山麓に鎮座する。 この附近一帯は、早くから中臣氏、後の藤原氏の本貫であつたとされており、天平12年(740)4月5日大中臣清麻呂がその住居の附近にその祖神を祀ったのが始まりとされている。 その後の変遷については、なんら伝わるものがない。 神名帳には二座とあり、当社はその一つであり、いま一座は大字清水字春日山にある春日神社である。 |
【大中臣清麻呂】 『神宮雑例集』に「天平12年(740)、春日御社奉遷寿久山社、是右大臣大中臣清麻呂郷致仕籠居島下郡寿久郷之間、住家近所奉崇也」 大中臣 清麻呂(おおなかとみ の きよまろ、大宝2年(702年) - 延暦7年7月28日(788年9月6日))は、奈良時代の公卿。父は中臣意美麻呂。名は清万呂・浄万呂・清麿とも書く。大中臣氏の祖。 762年(天平宝字6年)文部大輔・式部大輔として淳仁天皇の勅旨を宣伝し、12月参議に任じられた。765年(天平神護元年)神祇伯のとき、従三位に叙せられた。初め中臣氏を称したが、769年(神護景雲3年)大中臣朝臣の姓を賜った。771年(宝亀2年)1月、大納言の時光仁天皇の皇子他戸親王の東宮傅となり、3月には従二位右大臣に任じられた。以後、780年(宝亀11)末まで太政官首班を勤める。772年(宝亀3年)2月に正二位となる。781年(天応元年)6月に職を辞し、788年(延暦7年)に87歳で薨去。 中臣鎌足が藤原姓を賜った後、その子藤原不比等が幼かったため、鎌足の甥で婿養子とも言われる中臣意美麻呂が暫定的に藤原氏を継いだ。後に、不比等の成長を待ち、正式に文武天皇の命令によって改めて鎌足の嫡男として不比等とその子孫のみに藤原姓を許し、他の者は中臣氏に復するように命じられて意美麻呂も中臣姓に戻る。意美麻呂は不比等の後押しで中納言に昇進した。意美麻呂の息子である大中臣清麻呂(正二位・右大臣)(702年〜788年)は、神護景雲3年(769年)6月に「大中臣朝臣」を賜姓されて、以後その子孫は「大中臣氏」と称した。 |
須久久神社 須久久神社 二座 鍬靱 須久々は假字也、和名鈔、(郷名部、)宿久、(久印本人に誤) ○祭神詳ならず○宿久荘鳥羽村に在す 神宮雑例集に、天平12年庚辰4月5日、春日御社奉遷寿久山御社、是右大臣大中臣清万呂卿致仕、籠居摂津國島下郡寿久郷之間、住家近所奉崇也、 神社覈録 |