天岩門別神社
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   【延喜式神名帳】天石門別神社 摂津国 島下郡鎮座

   【現社名】天岩門別神社
   【住所】大阪府茨木市元町4-3
       北緯34度49分5秒,東経135度34分12秒
   【祭神】天手力男命 (配祀)天宇受売命 豊国神 東照神
   【例祭】
   【社格】旧郷社
   【由緒】創建の年代は明らかでない
       大同2年(807)宮元町に鎮座
       天正10年(1582)茨木城主中川清秀の禁制に「天石門別神社」
       文禄2年(1593)の棟札に「茨木氏神三社相殿」
       元和8年(1622)9月本殿造営牛頭天王以下三神を奉齋して茨木の氏神とする。
       同石門別神社を地主神として別宮或は奥宮と称する
       明治12年5月12日郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】元は茨木城内(現茨木小学校)にあった
        元和3年(1617)現在地に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「牛頭天王」と称していた
   【公式HP】 茨木神社
   【社殿】本殿
       

   【境内社】

茨木市役所の東北、元茨木川にかかる橋を渡ると堤防沿いに茨木神社があり、その本殿後ろに鎮座している。江戸時代の茨木城は当社の北部にあり、現在の茨木小学校が本丸の地であった。
坂上田村麻呂が、平安時代初めの大同2年807)に茨木の里をつくつた時に宮元町に鎮座という。
楠木正成が茨木城を築くに当たって現在の位置へ遷座
戦国時代に織田信長の兵乱を避け、牛頭天王と称した。
元和8年(1622年)9月10日に社殿を新築して、天石門別神社を奥宮に遷し、素盞嗚尊(牛頭天王)を正殿に祀って茨木神社とした。
天石門別神社の床下に「赤井」があり、西に「黒井」があって共に名水という。


茨木神社略誌

当神社は、今から千百余年の昔、平城天皇の御代大同2年、坂上田村麿が荊切りの里をつくった時、当神社奥宮天石門別神社が今日の宮元町に鎮座されたと伝えられています。平安時代の延長5年(927年)に編纂された延喜式神名帳にも嶋下郡十七座の一つとして天石門別神社の名が記されています。
以来、中条村、茨木村の氏神として多くの人々の崇敬をあつめ、楠木正成公が茨木城築城の際、現在の地へ奉遷し、以後代々の城主は厚い崇敬を捧げてまいりました。特に、豊臣時代には、城主中川清秀、片桐貞隆等が上田を寄進し、徳川時代には、藩主永井家、大阪城代等から祭礼毎に重役を代参させるなど氏子と共に尊崇の誠を捧げてきました。
その間の元亀、天正の頃、織田信長は天下統一の手段としてキリスト教の布教につとめ近畿一円の神社仏閣を多数焼却するに際して天照大神、春日大神(天児屋根命)、八幡大神(誉田別命)および牛頭天王(信長の産土神)の諸神は恐れ畏んで破壊しませんでした。そこで天石門別神社の社名を隠して牛頭天王社と称して焼却を免れ、後実際に素盞嗚尊を合祀したと摂津名所図会(寛政10年刊)にも記されています。
後水尾天皇の元和8年(1622年)9月10日に社殿を新築して、天石門別神社を奥宮に遷し、素盞嗚尊を正殿に斎き相殿として天児屋根命、誉田別命を合わせ祀り本社としました。
明治5年、郷社に列せられ、昭和21年、神社制度の改革により宗教法人として新たに発足し、現在に及んでいます。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




茨木神社略誌

祭神
建速素盞鳴尊
配祀
 天児屋根命
 誉田別命
由緒
当神社は、今から千百余年の昔、平城天皇の御代大同2年、坂上田村麿が荊切の里をつくった時、当神社奥宮天石門別神社が今日の宮元町に鎮座されたと伝えられています。平安時代の延長5年(927年)に編纂された延喜式神名帳にも嶋下郡十七座の一つとして天石門別神社の名が記されています。
以来、中条村、茨木村、の氏神として多くの人々の崇敬をあつめ、楠木正成公が茨木城築城の際、現在の地へ奉遷し、以後代々の城主は厚い崇敬を捧げてまいりました。特に、豊臣時代には、城主中川清秀、片桐貞隆等が上田を寄進し、徳川時代には、藩主永井家、大阪城代等から祭礼毎に重役を代参させるなど氏子と共に尊崇の誠を捧げてきました。
その間の元亀、天正の頃、織田信長は天下統一の手段としてキリスト教の布教につとめ近畿一円の神社仏閣を多数焼却するに際して天照大神、春日大神(天児屋根命)、八幡大神(誉田別命)及び牛頭天王(信長の産土神)の諸神は恐れ畏んで破壊しませんでした。そこで天石門別神社の社名を隠して牛頭天王社と称して焼却を免れ、後実際に素盞嶋尊を合祀したと摂津名所図会(寛政十年刊)にも記されています。 後水尾天皇の元和8年(1622年)9月10日に社殿を新築して、天石門別神社を奥宮に遷し、素盞鳴尊を正殿に斎き相殿として天児屋根命、誉田別命を合わせ祀り本社としました。
明治5年郷社に列せられ、昭和21年神社制度の改革により宗教法人として新たに発足し、現在に及んでいます。
主要行事
一月一日  歳旦祭
一月九日  十日戎祭
十日・十一日  宝恵籠巡行・福笹・吉兆の授与当が行われる
一月十五日   左義長神事・祈祷木奉焼祭
二月節分  節分祭,鎮魂星祭
二月十一日 紀元祭
四月八日  人形奉焼祭
四月十八日 祈年祭(春祭)
六月三十日 大祓・輪くぐり神事
七月十三日 夏祭
  十四日 (枕太鼓神輿渡御神事)
十月十日  例大祭(秋祭)
十一月十五日 七五三詣
十一月二十三日 新嘗祭(新穀感謝祭)
十二月三十一日 大祓・除夜祭
月次祭 毎月一日・十五日
境内神社
奥宮 式内天石門別神社 例祭十月十日(元郷社)
祭神
 天手力男命
配祀
 天宇受売命
 豊国神・東照神
当神社の元宮であり延喜式内社。元は今日の宮元町に鎮座されていたが、茨木城築城の際に現在の地に移された。昭和四十九年に氏子崇敬者の浄財によって神明造の社殿に改築造営された。
明治十二年に郷社に列せられる。
神社名 御祭神 例祭   附記
皇大神宮  天照大御神   十月十七日 宮地を宮元町より現在地に奉遷した折りに鎮座 元和八年修造営
稲荷神社  宇迦御魂神   二月初午の日 延享三年造営
愛宕神社 火産霊命 四月十五日 元禄二年造営
天満宮  菅原道真公 二月二十五日  楠正成公が茨木城築城の際城の鎮守として城内に祀られた。元和二年茨木城廃城の折り当地へ移された明治十二年村社に列せられる
主原神社  天児屋根命・応神天皇  六月十五日  元主原村の氏神。明治四十一年主原町より当神社に合祀
多賀神社  伊射那岐尊  四月二十二日  元下中条村の氏神 明治四十一年下中条より当神社に合祀
皇大神社  天照大御神  三月十七日  元上中条村の氏神 明治四十一年上中条より当神社に合祀
事平神社  大物主神・崇徳天皇・金山彦命  九月十日  宝暦十二年修造営。明治四十一年主原町御嶽神社の金山彦命を合祀 厳島神社  市杵島姫命  十一月二十五日  
恵比須神社  事代主命・大国玉命  十一月二十日  元々町内の商家の私宅で順番にお祀りしていたのを明治四十二年境内に社殿を新たに設けて鎮座。昭和三十八年に現存の建物を造営する
儀式殿・参集殿・神輿庫
●儀式殿
昭和41年に建設され、諸祭典また挙式に関する施設が整っています。
●神輿庫
夏の風物詩として親しまれている夏祭りの鳳輦一社・子供神輿六社等が展示収納されています。
●神輿庫・参集殿
平成の御大典記念として建設され、参集室は諸会議・研修の場として、また結婚披露宴会場としてご利用いただけます。
●旧手水舎
東門を入ったところにあり、水槽に「文久三年癸亥年西突抜町…」との銘があります。
●燈籠
正徳、享保、宝暦、安永、文化等の銘がある大小各種の石燈籠、常夜燈が現存し近世の信仰の厚かったことを物語っています。
●大鳥居
南参道大鳥居は明治35年10月の建立ですが、東参道の鳥居は「明暦乙未年摂州島下郡茨木村牛頭天王…」と記されてあり、今から330年程前のもので、初めは南参道に建立されたものを、後に東参道に移築されたものです。
●黒井の清水
豊臣秀吉の茶の湯にも供され、赤片の清水・青片の清水とともに古くから嶋下郡三名水と言われていました。
●東門
茨木城の搦手門といわれ、元和三年茨木城廃城の際にこの地に移築されました。

由緒書



天石門別神社

天手力男命は、天の岩屋に入ってしまわれた天照大御神が、外の様子を見るために岩戸を細めに開けられた際、再び岩戸が閉じられないように両手で渾身の力をこめて堅く押さえ、すぐさま天照大御神の御手をお取りし、引いてお出し申し上げた神様です。天宇受売命は、天の岩屋の前でおもしろく、楽しく踊られ、天照大御神が外の様子を見るきっかけとなった神様です。
当神社の元宮であり延喜式内社であります。元は今日の宮元町に鎮座されていましたが、茨木城築城の際に現在の地に移され、明治12年に郷社に列せられました。そして、昭和49年に氏子崇敬者の浄財によって神明造の社殿に改築造営されました。

公式HP



天石門別神社

天石門別は安麻乃伊波止和氣と訓べし○祭神明か也○茨木村に在す
連胤按るに、天石門別神と申さは(校正者云以下欠文なり)
類社
美作國英多郡天石門別神社、近江國伊香郡天石門別命神社、大和國高市郡天津石門別神社、
陸奥國白川郡伊波止和氣神社、備前國御野郡石門別神社、二社

神社覈録



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