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旧高槻城内にあるが、創建の年代は不詳である。 宇多天皇の御代、当国に悪疫が流行し、多くの人命が失はれた時、祭神の託宣によつて悪疫がやんだので、社殿を造営し牛頭天王社として祭った。 高山友祥(右近)城主の時、耶蘇教を信じ神殿を破壊し、社領を没収したが、元和5年(1619)、城主松平紀伊守社殿を建営し牛頭天王社とした。 明治元年の神仏分離令により、牛頭天王は須佐之男命と名を変え、更に野見宿禰命を合祀して、「野見神社」と改称した。 |
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野見神社の由緒 野見神社は旧高槻城内にあり、須佐之男命 野見宿禰命を祀る。 社伝によれば、宇多天皇の頃(今から約一千百年程前)当地方に悪病が流行して多くの死者が出た時「社殿を造り、牛頭天王(ごずてんのう)をお祀りすれば悪病は治まる」というご神託があった。この神様は、災厄、疫病を追い払うといわれていたところから、早速お祀りしたところ、悪病はたちまちのうちに終息した。国人たちは大いに喜び、ここに社殿を造り、牛頭天王社として祭った。 その後、亨禄、天文年間には、高槻城主入江駿河守、和田伊賀守などの崇敬を集め、社領の寄進などがあった。後、キリシタン大名高山右近は神殿を破壊し、社領を没収、時の神職は御神体を石清水八幡宮に避難させる。しかし、元和五年、城主となった松平紀伊守は、城内の安全を祈願して、牛頭天王社を新造するとともに、社領を寄進した。 慶安二年七月永井日向守直清が城主となって更に社殿を築し、社領を寄進し、例祭日を10月14日と定めて臣下、国人とともに盛大な祭礼を行うようになった。永井氏治政二百年の後、明治維新となる。 明治元年の神仏分離令により、牛頭天王は須佐之男命と名を変え、更に野見宿禰命を合祀して、「野見神社」と改称した。 祭日 歳旦祭 一月一日 とんど神事一月十五日 節分祭二月節分の日(厄除人形祈祷) 例祭(秋祭)十月十日(御輿渡御、稚児行列など) 境内に永井神社あり。例祭は4月24日。寛政五年、藩祖直清公を祀るため、永井直進公によって建てられる。 また、同じく境内の高槻戎神社は十日戎で有名で、毎年1月9、10、11日のえべっさんには多くの参詣者でにぎわう。他、護国神社、稲荷神社、小島神社(通称弁財天)あり 由緒書 |
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高槻城と野見神社 野見町にある市民会館東側の野見神社がもともとは、高槻城の城内社だったことは度々のこの欄でも取り上げましたが、この神社の城内での役割については意外と知られてはいません。今回は、この境内にある数々の社に注目しながら、城内神の意味を考えましょう。 かって天坊幸彦博士が紹介された元禄二年(一六八九年)の野見神社の「社記」には、城内社の祭神を次のように記しています。 「牛頭天王一座 八幡宮一座 弁財天一座 (相殿・末社省略)」 祭神の中心が、牛頭(ごず)天王であったことは、十七世紀後半から十九世紀初頭にかけての二枚の『高槻城絵図』に「天王」「牛頭天王」とあるので確認できます。 この牛頭天王というのは、仏教教典ではインドの祇園精舎(しょうじゃ)の守護神とされ、仏教の神様なのですが、日本では災厄・疫病などを追い払う「御霊会(ごりょうえ)」の祭神として、とりわけ十五・六世紀には各地で盛行しました。御霊会は荒ぶるみたまをしずめ、たたりをのがれ、健康と豊作をもたらす祭り。元禄期に野見神社の祭日が、京の祇園祭と同じ六月十四日(当時)だったというのもうなずけます。おそらく、天文・永禄のころ、入江氏や和田氏の居館を囲む高槻城下では、武士に交じって農民たちも盛大に御霊会を営んだのでしょう。各地の例からみて、鉾(ほこ)や旗やそのほか、みたまのよりしろを手に手に、近くの池や川に厄霊を流す祭りがあったのかもしれません。 そう考えると、さきの「弁財天」の勧請伝承に、久米路(くめじ)山龍ケ淵に住みついた大蛇を龍神として祀(まつ)つたという話も、龍ケ淵が他ならぬ霊鎮めの聖地だったにちがいないのです。 久米路山は現在の城跡公園・島上高校の西側一帯で、当時は真上や古曽部の谷々から流下する小河川や地下水路があり、高槻城の掘割も、元は龍ケ淵の水でした。高槻城の別称「龍ケ城」も、城郭の容姿というよりも、この地名になぞらえたという方が正当でしょう。江戸期に入って元和五年(一六一九年)、前年から進行した城郭拡張・城下町整備の大工事が完成し、城下検地も終了しながら、城主土岐定義の突然の死去で高槻に封ぜられた松平家信は、城地の安全を祈願して、牛頭天王社を新造するとともに、龍神を城内掘の内(本丸の東)の小島に移し祀りました。 ところで、祭神牛頭天王が現在の素盞鳴命(すさのおのみこと)になったのはどうしてでしょうか。それは、明治元年(1868年)3月の神仏分離令によるものでした。分離令で神仏混交の典型例として名指しされた「牛頭天王」は、その年5月、新政権から「神号廃止」を命ぜられ、京都府令などで「以後祭神ハ素盞鳴命ト称スベシ」とされました。こうして野見宿称を合祀する「野見神社」が誕生しました。 境内に掲示の新聞記事 |
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野見神社 野見神社は高槻市北大手町旧高槻城内にあり、祭神は須佐之男命、野見宿禰命を祀る。創建の年代は社記に拠れば人皇第59代宇多天皇の御宇(9世紀後半)当地方に悪病が流行して多くの死者がでた時、「社殿を造り、牛頭天王をお祀りすれば悪病が治まる」というご神託があった。この神様は、災厄、疫病を追い払うと言われていたことから、早速お祀りしたところ、悪病はたちまちのうちに終息した。国人たちはおおいに喜びここに社殿を造り、牛頭天王社としてお祀った。これが当社の起源となる。 その後、享禄、天文 間には高槻城主駿入江駿河守、和田伊賀守などの崇敬を集め、社領の寄進などがあった。後にキリシタン大名高山右近が神殿を破壊し、社領を没収、時の神職は御神体を石清水八幡宮に避難させる。しかし元和五年、城主となった松平紀伊守は、城内の安全を祈願して牛頭天王社を新造するとともに、社領を寄進した。 慶安2年7月永日向守直清が城主となって、更に社殿を修築し、社領を寄進して例祭日を10月14日と定めて、臣下、国人とともに盛大な祭礼を行うようになった。永井氏治政二百年の後明治維新をむかえ、明治元年の神仏分離令により、牛頭天王は須佐之男命と名を変え、更に野見宿禰命を合祀して、「野見神社」と改称し、延喜式内社として郷社に列し、神饌幣帛料進社に指定された最も由緒ある神社である。 公式HP |
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郷社 野見神社 祭神 素盞鳴尊 野見宿禰 創祀の年月詳ならず、宇多天皇御宇当國疫病大に流行し、人民愁歎す、会々神告ありて社殿を再建して崇敬せしかば、疫病やうやくに治る、降りて後奈良天皇の享禄天文の頃、郡司入江遠江守神威に感じ、尊崇甚厚く、旧礼をつぎて、6月14日を祭日と定め、天下太平、五穀成熟を祈り、良田一町二反を社領として寄進し、祭礼の儀甚盛なり、同天皇弘治年中、郡司和田伊賀守相ついで崇敬深かりしが、正親町天皇元亀年中、高槻城主高山右近、基督教を信じ社殿を壊ち、神輿を破り、神領の田を没収す、其後僅に神祠を営みて神霊を奉鎮せり、後水尾天皇元和5年、松平紀伊守の尊崇深く、社領を寄せ、社殿を営み、中ごろ絶えたりし祭典を興す、其後の城主相襲ぎて崇敬深かりきといふ、明治4年11月、高槻県県社に預り、同5年11月、郷社に定る、境内850坪、社殿は、本殿、拝殿其他神楽所を備へ、境内祖霊社あり。 神饌幣帛料供進明治40年1月28日 明治神社志料 |