野身神社【上宮天満宮境内社】
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   【延喜式神名帳】野身神社 摂津国 島上郡鎮座
           上宮天満宮の境内社

   【現社名】野身神社
   【住所】大阪府高槻市天神町 1-15-5
       北緯34度51分22秒,東経135度37分4秒
   【祭神】野見宿祢
   【例祭】5月5日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】正暦4年(993)5月天満宮を造営
       天正6年(1578)高槻城主高山右近天主教を崇めるにより火を放つ
       天正18年(1590)豊臣秀吉社殿を修造社地を寄附
       元和5年(1619)松平紀伊守社領を寄進
       明治12年5月野身神社に改称し郷社
       戦後再び旧称上宮天満宮に復活

   【関係氏族】野見(後土師氏)一族
   【鎮座地】当初よりこの地に鎮座

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【公式HP】 上宮天満宮
   【社殿】本殿
       

   【境内社】
   【別当】春松院

上宮天満宮の境内社として鎭座する。
本社に通ずる参道脇の小高い丘上(野見宿禰墳と称す=六世紀の円墳)に鎭座。
社伝によれば、一條天皇の正暦4年(993)5月、勅使菅原幹正朝臣が太宰府に下向せられ、菅公の廟に参拝して贈左大臣正一位の詔を伝えて、菅公の御霊代と御自筆の画像を奉じて帰路の途に就き、京に入ろうとしてこの地に達した時、神輿が動かなくなった。「この地は野見の里と称え、この山上には祖廟がある。野見宿禰は菅公の祖先である、神輿の動かぬのも理由のあることである。御画像を奉安し宮柱太しく立てて山上に齋祀するがよい」。として、菅公を祀ったのが天満宮のおこりである。
元々野身神社の存したところに、後になつて菅公を主神とする天満宮を建立して、いつしか式内野身神社がその境内社として吸収せられたものと思われる。
戦国の天正年間、豊臣秀吉は当社参道「天神馬場」に本陣を置き、明智勢を山崎天王山に討った。


上宮天満宮略縁起

御祭神 菅原道真
    野見宿禰
    武日照命
鎮座地は和名抄等に見える島上郡濃味の里の北部を占め、野見(後土師氏)一族の居住した処で、その氏人が祖神として、野見宿禰を奉祀したる式内野身神社(境内社)の地は蓋しその古墳であらう。社伝に拠れば、一條天皇の正暦四年夏五月勅使菅原幹正朝臣太宰府に下向せられ菅公の廟に参拝して贈左大臣正一位の詔を伝へ給うて、菅公の御霊代と御自筆の画像を奉じて帰洛の途に就き、京師に入らうとして此地に来られた時忽ち神輿が動かぬので衆みな畏懼措く所を知らず、其時勅使の言はれるには「此地は野身の里と称へ、この山上には祖廟がある。野見宿禰は菅公の祖先ではないか、神輿の動かぬのも理由のあることである。御画像を奉安し宮柱太しく立て山上に斎祀するがよい」と。土人達は喜んで之に従ひ、工を起し新殿を築造して、正面には菅原道真命、左側に武日照命右側に野見宿禰命を配祀し、其の御威徳を尊崇した。この伝説的な表現の背後にその史的事実を裏付ける資料も多々あつて徃時を彷佛せしめるのであるが今之を省く。
中世神佛習合の結果、社僧によつて奉仕され、春松院別当と言う。曼珠院門跡に属し、中興少納言覚清より維新まで26代を数へる。天正18年豊公社殿を修造して、社地を寄付され、元和5年松平紀伊守社領を寄進されたる先例により各領主社領を寄せられ、寛文2年永井日向守直清侯社殿を増営し、且つ石華表を建立し、天台座主二品親王天松院宮直筆の上宮天満宮の五字額を掲げられた。
明治12年郷社に列し、爾来野身神社を称し昭和21年宗教法人設立と共に上宮天満宮の旧称に復した。
余録 社宝の一部
一、石造燈籠 一基 昭和17年重要美術品認定
一、天満宮縁起 二巻 絵詞 正嘉2年の奥書あり
一、上宮天満天神縁起 六巻 絵巻 長録3年法印権大僧都行乗筆
附近の旧阯
一、衣裳塚 菅公著用の装束を埋めた処と云ひ、西国街道以前の交通路を想察せしめる一資料。
一、天神馬場 豊臣秀吉の山崎合戦に陣した処と云う。
一、車塚 菅公の御車を埋めた塚という口碑がある。前方後円墳の一名車塚に来由するものであらう。
大阪府高槻市上田部天神山鎮座
北山上宮天満宮社務所

由緒書



上宮天満宮

由緒:日の神、武日照命の天降って鎮座された、此れの太古の杜、日神山一帯は弥生人の住居跡として銅鐸も出土し、南北に並ぶ四古墳のうち、中央の円墳上には式内古社の野身神社が在る。此地は「日本書記」が古代祭儀としての埴輪や相撲の逸話を記した野身宿禰を千数百年も前から斎き祀ってきた島上郡野身里である。彼の率いる祭祀者一族、土師氏は何百年か後に菅原道真、大江匡房始め平安時代に於ける史学、文芸学者たちを次々に生み出すが、殊に右大臣にまで昇った道真公は、然しその後天皇廃立に関わったとされ九州へ追放される。その死後百年近い頃、正暦四年(九九四)に正一位左大臣の位を遺贈する勅使として菅原為理が太宰府へと赴いた。御霊代など奉じての帰途、芥川を遡り当地の上田部(市役所西)に上陸し、領主近藤氏の城館に宿った。ところがいざ出立となると輿が動かず、これを先祖と共に留まりたい霊意と排察して、里人が日神山上に天満宮本殿を造営し改めて三神を併祭し奉った。実際の創建はこれより五十年も早く、京都北野社鎮座以前であり、全国天神社のうち二番目の古社とされている。
 戦国の天正年間、豊臣秀吉は当社参道「天神馬場」に本陣を置き、明智勢を山崎天王山に討った。その戦勝を感謝して、後に秀吉は社殿を美々しく修造する。
 江戸初期には高槻藩主永井直清が拝殿を設け大鳥居も建立、時の天台座主親王天松院宮筆の神額を奉納した。
 古来、近郷の三島地方はもとより遠く京都、大阪始め北攝能勢や北河内方面の崇敬を集め今に至る。例祭「初天神」は、延々と露天の連なる京阪神きっての民衆的大祭である。

社頭掲示板



野身神社と宿祢塚古墳

土師器(はじき)と呼ばれる素焼の壷や皿は祭祀用に用いられ、これらを製作する土師氏を率いる族長がノミ〔祈み]のスクネ(直の根)と呼ばれ神に対する直系の長を意味する。この日神山を北端として、東西1km南に3kmの地域は野見郷と云いその族長が葬られ連綿と祭祀された。
927年に制定され始めての法体系ともいうべき延喜式の神社台帳ともされる「神明帳」に記載されている神社を式内社とするが、野見宿祢を祀るのは四社(三河、尾張、因幡、及び当社)しかなく弊社の原点ともいうべき古社である。
そして明治12年以降かなりの間、この全域は、古名野身神社が正式名称であった。
日本書紀の説話をもとに相撲の神様としての伝承も定着している。
車塚古墳
この天神山(日神山)には南北に四つの古墳が築かれている。
境内に二つの古墳があり、その一つが宿祢塚(野身神社)あと一つは参道を下り交差点を左に折れ、急な小坂をあがったところにあり、前方後円墳とハッキリ解る。
この古墳は元来当社境内地であったが、道路建設の為分断された。
猪狩りの様子をあらわした動物埴輪が並んでいる、現在のものは模型であり、生捕りの狩は角力の原義を示し巫女の角笛も見られ全国唯一の角笛埴輪である。
立寄って頂き野見宿祢とのゆかりをしのんでいただきたい

社頭掲示板



上宮天満宮

日の神、武日照命の天降って鎮座された此れの太古の杜、日神山一帯は弥生人の住居跡として銅鐸も出土し、南北に並ぶ四古墳のうち、中央の円墳上には式内古社の野身神社が在る。此地は「日本書記」が古代祭儀としての埴輪や相撲の逸話を記した野身宿禰を千数百年も前から斎き祀ってきた島上郡野身里である。彼の率いる祭祀者一族、土師氏は何百年か後に菅原道真、大江匡房始め平安時代に於ける史学、文芸学者たちを次々に生み出すが、殊に右大臣にまで昇った道真公は、然しその後天皇廃立に関わったとされ九州へ追放される。その死後百年近い頃、正暦4年(994)に正一位左大臣の位を遺贈する勅使として菅原為理が太宰府へと赴いた。御霊代など奉じての帰途、芥川を遡り当地の上田部(市役所西)に上陸し、領主近藤氏の城館に宿った。ところがいざ出立となると輿が動かず、これを先祖と共に留まりたい霊意と拝察して、里人が日神山上に天満宮本殿を造営し改めて三神を併祭し奉った。 実際の創建はこれより50年も早く、京都北野社鎮座以前であり、全国天神社のうち二番目の古社とされている、戦国の天正年間、豊臣秀吉は当社参道「天神馬揚」に本陣を置き、明智勢を山崎天王山に討った.その戦勝を感謝して、後に秀吉は社殿を美々しく修造する。これは平成8年に事故により失われた。
江戸初期には高槻藩主永井直清が拝殿を設け大鳥居も建立、時の天台座主親王天松院宮筆の神額を奉納した、
古来、近郷の三島地方はもとより遠く京都、大阪始め北撮能勢や北河内方面の崇敬を集め今に至る例祭「初天神」は、延々と露天の連なる京阪神きっての民衆的大祭である。

神社パンフレット



野身神社

野身は假字也、和名鈔、(郷名部)濃味、○祭神野見宿禰○上田辺村に在す、(摂津志)今天神と称す、
○姓氏録、(山城国神別、河内国神別、)土師宿禰、天穂日命十四世孫野見宿禰之後也、
摂津志云、祝氏家臓文治2年応永元年祭禮式、云々、荘所村有地名上菅原、」考証云、今云、上宮天神、在高槻村、(田辺高槻は同所異名歟、田邊天神則上宮天神歟、)
類社
尾張國中島郡、三河國賀茂郡野見神社、(各一座)

神社覈録



郷社 野身神社

祭神 野見宿禰 武日照命 菅原道眞
此地は即ち野見宿禰墳墓の地にして、又宿禰の遠租武日照命の降臨ありし処なれば日野山といふ由口碑に伝へたり、創祀の年代詳ならす、醍醐天皇延喜の制小社に列る(延喜式)。島上郡三座の一なり、菅公合祀に貌て靴をなして曰く、一条天皇の正暦4年5月、散位從五位下菅原翁理使使として筑紫太宰府に至り、菅公に、正一位太政大臣を贈りて、菅公自写の肖像を奉じて上洛の途次、此山の麓を過ぐるに及びて、神輿俄に止りて動かす、為理奇異に思ひて、トして神慮を問ふ、菅神告げて曰く、吾家の祖神の鎮ります処なれば、吾も此に留らんと、依りて其画像を、野見神社の合殿に齋き祀りしなりと、昔は壮麗の社殿を有せしが、正親町天皇天正6年10月、高槻城主高山右近友祥、天主敢を奉じ近傍の神祠を焼く、当社も其災にかゝり。旧記什物皆灰燼に帰し社領も亦収めらる、後豊臣秀吉公の再興によりて、社殿、門臓再美観を呈す、後光明天皇慶安2年8月、永井日向守直清、高槻城に封ぜられてより、世々尊崇厚く、本殿破損に及べぱ、修理を加へ、祭時の神事には士卒をして警衛せしむ、中世以来、上宮天神と称へたりしを、明治12年5月野身神社の旧號に復し、郷社に列る、境内2216坪(官有地第一種)社殿は、本殿、拝殿、祓殿其他神器庫、絵馬所を備ふ、社邊車塚と称するものあるは、菅公合祀の時其車を埋めし処なりといふ、社の所在之を天神山といふ、石確敷町大路を高槻古城の西に通す、凡十八町天神馬場と称す、天神馬場は正親町天皇天正16年羽柴秀吉山崎合戦の時陣したる処なり。
神饌幣帛料供進 明治40年1月28日

明治神社志料



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