もとは天満橋南詰辺に鎮座していた。旧地は大阪市中央区石町2−15で府立労働会館の東向かいにある。(北緯34度41分22秒,東経135度30分48秒)。 西向の小祠の基磐は、神功皇后の鎭座石と称する巨石で、境外神社として豊磐間戸・奇磐間戸二神を奉齋している。「石町(コクマチ)」の地名はこの鎭座石に由來している。 いわゆる河内王朝初期の事として「住吉大神の御魂として、為婆天利神あるいは猪加志理神と号すと託り給ひき。よって斎き祀らしめ・・」と住吉神社神代記にあるように、鎮座地はこの王朝にとっては聖地であった。 祭神五神は宮地守護の神であり、現在も宮中三殿の神殿に「座摩巫祭神五座」として祀られている。 当社の宮司は渡辺氏であり、渡辺氏の出自は都下国造家で、四代縄継より当社の社務を管掌することとなつた。その祖は天津彦根命であり、累代の系図が伝えられている。延喜式臨時祭に「凡座摩巫、取都下国造氏童女七歳已上者充之。若及嫁時、申弁官充替」なる条文により、座摩巫の出自は都下国造家であつたことが知られる。 天正11年、大阪城築城に際し廓外なる現在の地に遷座した。 12月2日は鳥懸(トリカケ)神事と称し、当社独自の神事とされ、神前に野鳥を懸け供える祭祀である。その起源は、仁徳天皇百舌野に鷹狩をされし帰途当社に参拝され、その獲物を神前に献じたと言う古儀に由るものである。現在は猟友会の奉賛するところとなり、野鳥を松の枝にさげて神前に奉献している。 |
由緒 生井神 福井神 綱長井神 波比岐神 阿須波神 以上五柱の御祭神を総称して、坐摩神と申します。此の坐摩神は昔から住居守護の神、旅行安全の神、安産の神として一般から篤く信仰せられて居ります。住居守護とは人の住居に不慮の危害を防ぎ、居住する人々の安全息災をお守りになるのであって、此の意味で皇室に於かせられても、神武天皇以来今日に至る迄引続き皇居の守護神として此の神様を篤くお祭になり、一般の人々も古くは皆其の家庭の守護神としてお祭りしていました。 旅行安全とは、人々の足の踏み立てる所は何処でもお守りなりますので、外出中或は特に遠くへの旅行などに思はぬ災難に遭わない様に守護せらるるのです。之に就いては萬葉集に旅行中の安全を坐摩神に祈る防人の歌が載っています。 安産の神とは神功皇后が応神天皇をお生みになります時其の安産を当社にお祈りになった故事により、安産の神として古くより知られています。近くは明治天皇がお生まれになります時にも、皇室から特に御安産の御祈願があり丁度当社の秋祭の日に御安産になったのであります。 当神社は豊臣秀吉時代迄は今の天満橋南詰辺に鎮座せられ、摂津国西成郡(今の大阪城より西方一帯)の唯一の大社であり氏神でした。此の天満橋付近の地を渡辺と申していましたが、天正十一年、豊公の大阪城築城に祭し廓外なる現在の地に御遷座になり、今ここの町名を渡辺町というのも元の地名を移したものであります。 以上の通り当社は大阪に於ける最も古い、由緒ある神社であり、昭和十一年に官幣中社に昇格されたが、昭和二十二年、制令で社格は廃止されました。 しかし皇室の御安泰とともに氏子崇敬者の安全息災と隆昌発展を永久に守護せられています。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
坐摩神社 当社の創祀には諸説がありますが、神功皇后が新羅より御帰還の折、淀川南岸の大江、田蓑島のちの渡辺の地(現在の天満橋の西方、石町附近)に奉祀されたのが始まりとされています。 平安時代の「延喜式」には攝津國西成郡の唯一の大社と記され、産土神として今日に至っています。また朱雀天皇の御代、天慶2年(939)以来祈雨11社中に列し、以後たびたび祈雨〔雨乞い〕のご祈請・奉幣に預かりました。 坐摩神社行宮 <坐摩神社行宮> 天正10年(1582)豊臣秀吉の大坂築城に当たり替地を命ぜられ、寛永年間現在地に遷座されました。現在の鎮座地名を渡辺と称するのも、元の地名が移されたもので、全国の渡辺・渡部等の姓の発祥の地でもあります。旧社地と伝えられる石町には現在も当社の行宮(御旅所)が鎮座されています。 明治元年(1868)の明治天皇大阪行幸の際には当社に御親拝なされ、相撲を天覧されました。 昭和11年(1936)官幣中社に列せられた際に御造営された壮麗な御社殿は昭和34年(1959)に鉄筋コンクリート造で戦前の姿のままに復興されたものです。 社頭掲示板 |
坐摩神社 坐摩神社 大月次新嘗 坐摩は為加須里と訓べし〇祭神坐摩座祭神五座之内歟、(摂陽群談に、社家記云、祭神者神功皇后也、凱旋之日於此所欲食也、誉田天皇3年11月、百濟辰斯王叛遺紀角宿禰、羽田矢代宿禰令伐之、即日於難波沼中祀之、仍為住吉第一摂神云々、といへり一説なるべし、)○大阪南渡辺町に在す、 摂津志云、旧在八軒屋南石町、今尚有鎮坐石方五丈許、俗呼神功皇后憩息石因為神幸地、其北曰楼岸、旧有数十小祠皆属域内、天正中遷置圓江側、 神位 三代実録、貞親元年正月27日甲申、奉授摂津國從五位下勲八等坐摩神從四位下、 雑事 百練抄云、元仁元年4月13日、有軒廊御卜、住古末社坐摩社門併荒垣等、去年12月27日焼亡事、 神社覈録 |
府社 座摩神社 祭神 生井神 福井神 網長井神 波比岐神 阿須波神 創祀は神功皇后の十年にかゝる、皇后既に三韓を服し給ひて凱旋し給ふや、神武天皇の古例によりて、船を難波の岸浮見石の上に寄せて、神霊を鎮めて齊き給ふ、時に賎女醤を奉る、依て当社を祭らせ給ふ、(摂津名所図会)一説、応神天皇の朝紀角宿祢等四将を遣はして百済を伐たしめ給ひ、四将阿花を立てゝかへるや、即日神功皇后を難波沼中に祀る、(摂津志)猶一説、加茂真淵翁の説によれば、座摩はもと津国の地名にして、祝詞の文によるに、此五神古より其の地に鎮座し給ひしに、仁徳天皇都を高津に定め給ひし時、宮中にも之を齋き祀りて座摩と称し給ひしを、遷都の後も重く齋がれき、此れ即ち当社の創祀なりと(祝詞考)、其何れを是とすべきかは後考を待つ、平城天皇大同元年摂津の地二戸を神封に充て奉り、(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月27日五座並に従四位下を授け(三代実録)宇多天皇寛平9年12月位一級を進められ、(社記)醍醐天皇延喜の制大社に列し、月次新嘗の二祭に預る、当社の巫は都下国造の童女七才以上のものを取り之に充つ、若し嫁する時に及へば他を替へて之に充つ、(延喜武)朱雀天皇天慶3年正月位一級を進められ、白河天皇永保元年8月同一階を進められ、崇徳天皇永治元年8月同上、高倉天皇治承4年12月同上、後鳥羽天皇文治元年2月同上、土御門天皇建仁元年2月同上、(社記)後堀川天皇元仁元年4月13日軒廊御トあり、当社の門并びに荒垣等焼亡の事を示す、(百錬抄)亀山天皇弘長元年2月位一階を進め、後宇多天皇建治元年7月同上の事社記にあれど其拠る所を知らず、明治元年難波行幸の時当社に詣り給ひ白銀を進納し給ふ、又社殿造営の時は禁裏を初め、各御所より白銀等御寄進の例なり、玉串等の奉献は正、5、9月、12月なり、明治5年11月27日府社に列す、境内477坪2合9勺(官有地第一種)社殿は本殿、拝殿、幣殿、其他神饌所、社務所、高廊等を備ふ、今俗に座摩神社「ザマ」と呼べり、繁華の地域に在り、賽人絶えす。 名所図会に伏見院勅額難波大社座摩神と題せられ、今に西成郡の総社生土神なりと曰ふ、蓋豊臣氏築域の際此に移さる、」とあり、又摂津志云、「旧在八軒屋南石町、今尚有鎮坐石方五丈許、俗呼神功皇后神息石、因為神幸地、其北曰楼岸、旧有数十小祠皆属域内、天正中遷置圓江側」とあるは本社なり. 神饌幣帛料供進 明治39年10月4日 明治神社志料 |