高津宮の本殿の背後に地主神として鎮座する。 現在,高津宮が鎮座するこの場所には,もともと比売古曽神社だけが祭られていたが,大阪城築城のため高津宮がここに遷され,そのさい高津宮が本社となり,もともと鎮座した比売古曽神社が摂社となったという。 |
高津宮由緒 当宮は浪速を首都と定め高津宮に御即位あって、我が大阪発祥の因を築かれた仁徳天皇を主神として奉斎するお社である。往昔、聖が破楼から人家の貧煙を望んで、庶民の窮乏を察し諸税を中止して、民衆の疾苦を救済された事は衆知の古伝である。 その御仁愛御盛徳を仰いで、清和天皇は貞観8年正月12日、伊予権守橘朝臣良基に詔して旧都の遺蹟を尋ね社地を選定して社殿を創建し、当時河内国古市郡に神田五十町歩を神供料として御寄進された。 その後村上天皇は、康保3年9月、貞観の例に準じて社殿を造営し例幣を供進された。 崇徳天皇の天治元年に社地を石山より東高津に遷して、年穀祈願のため社頭の御造営がなされた。 後花園天皇の御宇、征夷大将軍足利義教公旧蹤を貞観の例に習って社殿を再建し祭祀憲録を制定された。 正親町天皇の天正11年、比売許曽社の境内である現社地に御遷座になってより比売許曽社を地主神として摂社に奉斎する事となった。 後陽成天皇の文禄3年、片桐東市正検地の際は旧例によって境内は陰地となり、又、慶長19年11月23日、徳川秀忠公は祈願状を添えて太刀一腰を奉納された。 元和の役には神霊を奉じて、一時大和に立退き同3年御遷座になったが、この戦乱のため社殿、宝蔵の大半は兵火に被り、伝来の旧記等も消失した。 明治5年、府社に列せられた。 昭和20年3月、第二次大戦の戦災に被り宝暦より伝わる神輿庫のみを残し悉く焼失した。昭和34年7月、別表神社に加列せられた。 昭和36年10月、氏子崇敬者の奉賛により社殿以下復興完成する。 かくの如く往昔より歴代皇族を始め国民の深い敬慕のお社として又神威も日々新たに今日に至っている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
比売古曽神社 比売古曽神社 下照姫命(子育ての神) 比売古曽社は延喜式式内の神にして、古くより高津宮(コウヅの宮)社地に奉斎していたが、高津宮が大阪城築造により現在地に遷座以来、高津宮の地主の大神として奉斎されている 社頭掲示板 |