生根神社
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   【延喜式神名帳】生根神社(大 月次/新嘗) 摂津国 住吉郡鎮座

   【現社名】生根神社
   【住所】大阪府大阪市住吉区住吉2-3-15
       北緯34度36分55秒,東経135度29分37秒
   【祭神】少名彦命
       『神社明細帳』『特選神名牒』『摂津名所図会』『住吉名勝図会』少彦名命
       『神名帳考証』(度会延経並びに件信友)活津彦根命

   【例祭】10月8日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創立年代及び縁起については詳かではない
       住吉大社鎭座以前の創立と云う
       大同元年(806)「生根神」一戸
       文明14年(1482)12月天満宮を社地に祀る
       明治5年(1872)10月9日分離独立して郷社
       同40年1月神饌幣帛料供進社に指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「奥の天神」と称していた
   【公式HP】 生根神社
   【社殿】本殿流造切妻千鳥唐破風、桧皮葺
       幣殿・拝殿・神庫・神饌所・手水舎・絵馬所・参集所・社務所

   【境内社】菅原神社・塞神社・龍王神社・種貸神社

境内地は高台にあつて、昔は西方海を望む景勝の地であった。
社名は祭神の「活津彦根(イクツヒコネ)命」による名であるという。
俗称の「奥の天神」と呼ばれる事が普通であるが、これは文明14年(1482)12月に社地内に天満宮を祀つたことよりする呼称であり、「奥」の文宇を冠するのはこの神社が大海神社の奥にあつた爲に付けられたものと云われる。
元は住吉大社の摂社として祭祀されたが、神仏混淆により中近世より住吉神宮寺の僧の奉仕するところとなり、境内敷地千五十三坪の東北隅には観音堂が造られ、例月ここでは天神講が開かれ法華経が読経された。
 この観音堂には神功皇后が三韓出兵のため乗船された船の帆柱で造られた「帆柱観音」が有名とされ、徳川期には多勢の浪速人や近隣近郊の人々が参詣した。しかし、この観音堂は廃仏棄釈により明治に至って破壊された。信仰の厚かったその尊像は、その後近くの寺に預けられたと言われてきたが、現在は行方不明である。 なお、神社は明治5年10月、住吉大社より分離したが、郷社に列せられ、「生根神社」の名を再興された。
往古以前から蛭児命を祀っていたとの伝承もある。洪水で流された西宮神社の神体が当地に流れ着きこれを祀っていたが、西宮神社に神体を返還した後も分霊を奉祀したのが当社の創建であるという。


由緒

御祭神 少彦名命
祭日 10月9日(例大祭) 7月19日(夏渡御祭)
沿革 当社の御創立は不詳なるも、住吉大社が当地に御鎮座の以前より奉祀せられて居り(日本書紀では1900年前)、延喜式の神明帳(約1300年前に制定)においても当時の式内官幣大社に列し年四度の官幣に預るとある。古来有名大社であったと文献にも多く残っている。
特に豊臣時代には淀君の崇敬社にて、片桐東市正勝元が奉行して現存の御本殿が寄進されている(現大阪府重要文化財文、文部省重重要文化財申請中)。
徳川時代においても、徳川綱吉将軍が修理を命じ奉幣している。(住吉大社造営記)
古来住吉郷の郷社だったが、徳川時代に神宮寺と倶に住吉大社の管理下に入り、後明治5年、元の如く(住吉郷現住吉区全体)の郷社に戻り、現在においては終戦後社格を廃す(全国神社)こととなったが、昨今の夏祭は盛大であり近郷より十万人近い社参がある。
更らに境内社天満宮は、室町後期の建造と推定され、御祭神菅公の木製御神像は、文明十四年、天台法主融円律師作の在銘の国宝級の御神体を安置している。これらも近く国の指定となるは必至である。
又別名「奥の天神」は、住吉大社の奥の天満宮を称したとも云われ、一節には沖の天津神(少彦名命)から出た名称(筧博士の説)とも云われている。
更らに古伝によれば少彦名命は造酒の祖神であるため、神功皇后も当社で酒を造り住吉三神に献ぜられたとあり、「酒祝(さかほがい)の歌」というのが後世まで残って居て当社では秋の大祭を甘酒祭りと称して郷土の人々が親しんで来ているのもその一つの実証と思考される。もともと薬の祖神である関係上、古来住吉の淡島明神との別名のもとに信仰者多く、現在においても旧暦3月3日に淡島祭を行っている。
建造物
御本殿 大阪府指定 重要文化財。完全なる桃山時代の建築様式を残し、切妻千鳥破風木造檜皮葺極彩色の建造にて、慶長5〜7年頃淀君の指令により建設されたものである。
拝殿 総木曽檜材にて桃山時代の建築様式を取り入れ、工事も二ケ年に亘って行なわれ、其の美術的な真価は後世迄も重要視されて行くものである。
天満宮 (境内社)前述由緒書に明記せる通り室町後期の建築様式である。
紅梅殿 元住吉大社神宮寺の回廊(慶長初年の建造物)の一部を、明治初年当社に移し絵馬所となしたるも、昭和初期に集会所に改造す。 其他境内末社四社、及び氏子参集所、神庫、社務所等は何れも明治以降にて新築又は氏地中より移転したものである。
主なる祭礼
例祭(10月8日・9日)、夏大祭(7月18日・19日[渡御式])、新年祭、紀元祭、節分祭、淡島祭(新暦4月3日)、秋恩祭(10月25日)、月並祭(毎月9日)、七五三祈祷(11月13日・14日・15日)、除夜祭(12月31日)
氏子区域
住吉小学校下、大領小学校下、東粉浜小学校下、西粉浜小学校下、北粉浜小学校下、加賀屋小学校下、住吉川小学校下、墨江小学校下、以上約二万余戸。
境内旧跡
現拝殿東側にある礎石(23箇)は明治初年まで建立されていた、帆柱観音堂の跡であって、この観音堂内の仏像は帆柱観音と称して神功皇后御乗船の帆柱を以つて刻みしものと伝えられている(現在当社に無し)。又紅梅殿西側の石崖は土佐陣屋の石崖の一部を当社に移せしものである。
「神明穴立石」御本殿東側に有り、少彦名命が海外に行かれし時の浜の石をここに運び「何首烏」と刻し(薬草名)霊石とされし時代もあり、一夜のうちに和歌浦より住吉浜に来たりし妙石なりとの伝説も今は古老の人のみが知る仮説である。
尚境内樹木、もち其他五百年以上(大阪市指定)数本あり。
玉出生根神社は明治始年に当社より御分神されたものである。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




生根神社

当社の創立時期は不明であるが、延喜式神名帳(西暦927年)に官幣大社として記録されており、古来より有力な神社であった。
特に豊臣時代には、豊臣秀吉の側室淀殿の崇敬社として、片桐且元が奉行となり現在の御本殿が寄進されている。(大阪府指定重要文化財)
当社は古くから住吉郷の郷社であったが、江戸期に神宮寺とともに住吉大社の管理となり、明治5年に再び郷社に戻り現在は大阪市住吉区と住之江区に連なる地域の氏神様として多くの氏子崇敬者から信仰されている。
また、別名「奥の天神」(奥天社)は住吉大社の奥の天満宮を称したとも、沖の天津神(少彦名命)から出た名称ともいわれている。さらに古伝によれば、少彦名命は造酒の祖神であり神功皇后も当社で酒を造り、住吉三神に献ぜられたといわれている。

公式HP



生根神社

当社の御創立は不詳なるも住吉大社が当地に御鎮座の以前より奉祀せられて居り(日本書紀では1900年前)延喜式の神名帳(約1300年前に制定)においても当時の式内官幣大社に列し年四度の官幣に預るとあり。古来有名大社であった文献にも多く残っている。特に豊臣時代には淀君の崇敬社にて片桐東市正勝元が奉行して現存の御本殿が寄進されている(現大阪府重文、文部省重文申請中)。徳川時代においても、徳川綱吉将軍が修理を奉幣している。(住吉大社造営記)古来住吉郷の郷社だったが、徳川時代に神宮寺と倶に住吉大社の管理下に入り、後明治5年元の如く(住吉郷現住吉区全体)の郷社に戻り、現在においては上記の氏子区域の氏神様として多くの参拝がある。
又別名「奥の天神」名は住吉大社の奥の天満宮を称したとも云われ、一節には沖の天津神(少彦名命)から出た名称(筧博士の説)とも云われている。更らに古伝によれば少彦名命は造酒の祖神であるため、神功皇后も当社で酒を造り住吉三神に献ぜられたとあり、「酒祝(さかほがい)の歌」というのが後世まで残って居て当社では春の淡島祭を甘酒祭りと称して郷土の人々が親しんで来ているのもその一つの実証と思考される。もともと薬の祖神である関係上、古来住吉の淡島明神との別名のもとに信仰者多く、現在においても四月第一日曜に淡島祭を行っている。

由緒書



生根神社

御祭神:少彦名命
由緒:御創立は不詳なるも、延喜式の神明帳(十世紀前半)において、当時の式内官幣大社に列し古来有名大社であった。
 豊臣時代には淀殿の崇敬社にて、片桐且元が奉行して現存の御本殿が寄進された。
 古伝によれば少彦名命は造酒の祖神であり、神功皇后も当社で酒を造り住吉三神に献ぜられたとある。
 又別名の「奥の天神」は住吉大社の奥の天満宮を称したとも云われ、一説には沖の天津神(少彦名命)から出た名称とも云われている。

社頭掲示板



生根神社

生根神社 大月次新嘗
生根は伊久禰と訓べし○祭神、在所等詳ならず、
摂津志云、或曰在住吉村、今称奥天神、與西成郡勝間今在家中在家共預祭祀、
類社
大和國城上郡忍坂座生根神社(大月次新嘗)の條見合すべし

神社覈録



郷社 生根神社

祭神 少彦名命
創祀年月定かならずと雖も、旧住吉神社の境内に在りて共摂社たりしが、明治の初年今の地に遷して郷社に列す、境内533坪(官有地第一種)、社殿は本殿、拝殿を備ふ、住吉はもと須美乃江と呼べりしが、倭名抄に字によりて須美與志と訓したるより、多く之にならひて須美與志と訓するに至れり、もと住吉郡といひしを、明治29年廃して東成郡に併す。
「住吉の里ゆきしかば春花のいやめづらしき君にあへるかも」(萬葉集)
神饌幣帛料供進明治40年1月28日

明治神社志料



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