社伝によれば、この地はかつて曾根崎洲という大阪湾に浮ぶ孤島で、そこに「住吉住地曾根神」を祀っていたとされる。「難波八十島祭」旧跡の一社とされている。 |
由緒 当社御鎮座の曾根崎は、上古曽根州と称する孤島で島中に一小祠があった。 地名曽根の名は難波八十島祭の一つであった往吉住地曽祢の神を祀り、この御神名によって曽根州たる地名が起こったという。 後、後陽成天皇の御神名御宸筆を御霊代として菅原道真公を配祀、曾根崎天神の名がある。 延喜元年1月、菅原道真公筑紫に太宰権帥として左遷配流の道すがら太融寺参詣にこの社地をすぎられた時、路上の草露深く袖を濡らしたので「露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思いいづれば」と詠ぜられたのが、露天神社の名の起こりといわれている。 又5月入梅の侯になると社地より清水が涌出したので、梅雨の天神と称せられるようになり、現在も境内に神泉露の井戸があり、その跡といわれるがいづれもその出所は詳かでない。 旧記によれば文明5年及天文3年、両度再建せられ、元和元年、大坂夏の陣の兵火に炎上、同8年、この地の豪族渡辺氏によって造営され、次第に土地の繁栄と共に当地の産土神と尊崇せられるようになった。 古くは北野天神、大阪天満宮とこの三社をもって世人かなえの三足にたとえて、「三鼎の宮」と称し有名であった。 明治5年、郷社に列し、同40年、難波神明社を合祀、同43年、金刀比羅宮、水天宮を末社として奉斎する。 明治42年7月31日、所謂北区の大火により嘉永2年4月造営の社殿、社宝、旧記等烏有に帰したが、幸い伊勢神宮滝原宮の遷宮古材を得て、大正10年10月20日、旧にまして壮麗に復興された。 然るに昭和20年6月、今次大戦の災に罹り惜しくも末社を残し焼失した。 その後氏子崇敬者の奉賀を得て昭和32年9月20日、壮厳なる社殿を造営、遷座祭を斎行し、次で昭和52年10月20日、菅原道真公御神忌1075年祭ならびに社殿復興20周年記念事業として社殿の修復、透塀玉垣等新設。同56年2月20日、神輿庫竣工し現在に至る。 合祀の難波神明社は、夕日の神明とも称し春日出朝日の神明社、鶴町日中の神明社と共に大阪三神明といわれ、社殿が西に向かっていたのでこの名がある。 又東京芝神明宮、京都松原神明宮、同東山神明宮、加賀金沢神明宮、信濃安曇神明宮、出雲湯殿山神明宮と当神明宮をもって日本七神明という。 又この社は嵯峨天皇の皇子河原左大臣源融公が弘22年に今の西天満伊勢町辺の一孤島に祀られたのがその始めで、この地を大神宮北の州、又は神明の鼻と称し、現在の伊勢町、木幡町の名の起こりでもある。 後醍醐天皇の御代には勅願所と定められ屡々行幸せられ、後徳川氏の世に至っては大坂城代及両町奉行の尊崇ことに厚く境内も広大であったが、天保5年7月11日、火災により社殿悉く焼失し次第に衰頽に赴き、明治40年12月、当社に合祀された。 末社は金比羅宮、水天宮、稲荷社があり、金比羅宮はもと中之島高松藩邸に祀られ讃岐国金比羅宮社のご分霊を勧請、水天宮は久留米藩邸に祀られたのを明治になり、藩邸を上地その後当社に遷座された。 又通称お初天神なる名の起こりは、元禄16年4月7日、堂島新地天満屋の抱えお初と、内本町醤油問屋平野屋の手代徳兵衛が、当社天神の森で心中し大阪中の評判になった。 近松門左衛門は直ちにこれを劇化、翌月5月7日、道頓堀竹本座の舞台にかけ、近松の名文とあいまって大当たりとなり竹本座の不振を一挙に挽回したという。 「この世も名残り、夜も名残り、死にに行く身をたとふれば、仇しが原の道の霜、一足づつに消えて行く夢の夢こそあはれなれ」 浄瑠璃 曾根崎心中道行の一節近松門左衛門の曾根崎心中は社会劇ともいうべき世話物浄瑠璃の初作として、演劇史、文学史的にも重要な意義と価値をもつといわれている。 現在の境内地は約1000坪、附近商店街の発展と共に境内も逐次整備され、勧学の神、商業繁栄、交通安全、縁結びの神として老若男女の参拝も多く、又毎月第一金曜日には大阪ゴミの市という骨董市もたち、アンティークな品を求める若人達で賑わっている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
露天神社 由緒 創建以来一千三百年の歴史を持つ古社で、「難波八十島祭(なにわやそしままつり)」旧跡の一社である。曽根崎・梅田地域の総鎮守として現在も崇敬を集める。 社伝によると、当社は上古、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀り御鎮座されたと伝えられており、「難波八十島祭」(注1)旧跡の一社である。曽根崎(古くは曽根洲と呼ばれた)の地名は、この御神名によるとされている。 創建年代は定かではないが、「難波八十島祭」が文徳天皇の嘉祥3年(850年)にまで遡ることができ、6世紀の欽明天皇の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察できる。なお、承徳元年(1097年)に描かれた「浪華の古図」には、当社の所在が記されている。 南北朝期には「曽根洲」も漸次拡大し、地続きの「曽根崎」となった。この頃、北渡辺国分寺の住人・渡辺十郎源契(河原左大臣源融公十一世渡辺二郎源省の末)や渡辺二郎左衛門源薫ら一族が当地に移住し、田畑を拓き農事を始め、当社を鎮守の神とし曽根崎村を起こした。 以後、明治7年(1894年)の初代大阪駅、明治38年の阪急電鉄梅田駅の開業などとともに地域の発展に拍車がかかり、当社も大阪「キタ」の中心、梅田・曽根崎の総鎮守として崇敬を集めるに至っている。 (注1)古代難波において、王権のもとに執り行われた最も古い祭祀とされ、奈良時代には即位儀礼の一環として、即位の翌年に、天皇自ら難波の海辺に行幸し斎行されていたと考えられている。 社名の起こり 菅公が当地で詠まれた御歌 「露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば」に因る。(その他諸説有り) 昌泰4年(901年)2月、菅原道真公が筑紫へ左遷配流される途中、福島に船泊まりされた折に、当社東方に伽藍を構える「大融寺」に船頭茂大夫の案内でご参詣の道すがら、当地で、上の歌を詠ぜられた。この故事にちなみ、露 天神社と称すると伝えられている。(『摂津名所図会』に記載の説) なお管公は、元和8年(1622年)3月に、二郎左衛門九世の孫・渡辺新兵衛源尋が、大阪夏の陣の兵火で焼失した当社社殿を再建するとき、その御霊代として後陽成天皇より御神名御宸筆を賜り相殿に合祀された。 ◆『摂陽群談』では、入梅の時期に祭礼をすることから「梅雨天神」と称するという。また、他説では梅雨時期になると清水が湧き溢れる井戸 (注2)が境内に存することによるとも伝えられている。 (注2)浪速七名井「神泉 露の井戸」 真水の少ない大阪で、周辺地域のみならず社地横を通る旧池田街道を行き通う人々にとっても、貴重な井戸であった。 梅雨時期には清水を地上に湧き出したと伝えられ、当社社名の起こりともいわれる。境内に現存するが、水量は少ない。 公式HP |
曽根崎心中 「お初天神」の名で広く知られる当神社は、正式名称を露天神社(つゆのてんじんしゃ)といいます。元禄16年(1703年)に当神社の境内で実際にあった心中事件を題材に、近松門左衛門が人形浄瑠璃「曽根崎心中」を書きました。以後、そのヒロインの名前「お初」にちなんで「お初天神」と呼ばれるようになったのです。 「曽根崎心中」は、元禄16年4月7日に起こった、堂島新地天満屋の遊女「お初」と内本町平野屋の手代「徳兵衛」が当神社の「天神の森」にて情死した事件をもとに、近松門左衛門が劇化したものです。この作品は当時の人々の間で大評判となり、当神社にも参詣回向の老若男女が大勢押しかけたといわれています。 広く民衆の涙を誘うこの作品はその後も繰返し上演され、今日でも回向とともに、恋の成就を願う多くの人々が訪れています。なお、昭和47年7月、曽根崎中1丁目の有志によって、恋に殉じた二人を慰霊するための「曽根崎心中 お初 徳兵衛 ゆかりの地」という石碑が建立されました。 二人の300回忌の後、氏子の一人が「お初さんのために」と100万円の寄付がありました。それをきっかけに、地元の商店街などから寄付金が寄せられ、平成16年4月にブロンズ像が製作されました。 公式HP |
露天神社由緒略記 御祭神 (御本社) 少彦名大神 大己貴大神 天照皇大神 豊受姫大神 菅原道真公 (境内末社)水天宮 金刀比羅宮 開運稲荷神社 (境外地) 夕日神明社碑 社伝によれば、創建は壱千百余年を遡り、文徳天皇の御代、嘉祥3年(850年)に定め給いし「難波八十島祭」の旧蹟にも数えられ、「住吉住地曽祢神」を祀ると伝えられる。往地此の地は曽根洲と称する孤島にて、曽根洲、後の曽根崎の地名はこの御神名より起こる。 平安期、渡辺十郎源契来たりて入植せしより、渡辺氏一族を始め移植の民次第に増し、曽根崎村へと発展し、当社も産土神「曽根崎天神」として尊崇された。現在も梅田、曽根崎地区の鎮守として信仰を集めている。 昌泰4年(901年)菅原道真公筑紫に左遷配流の途次、当地を過ぎ給う砌、境内の草木露深ければ、 露と散る 涙に袖は朽ちにけり 都のことを 想い出づれば と詠ぜられ、菅公太宰府にて御他界の後、その遺徳を偲び奉り合祀し、右の御歌より「露ノ天神社」と称する。 (社名の由来その他諸説あり) 元禄16年4月7日堂島新地天満屋抱えの「お初」と、内本町醤油屋平野屋の手代「徳兵衛」、当社「天神の森」にて情死し、日を置かず時の戯曲作家「近松門左衛門」により「曽根崎心中」として劇化された。 以後上演の度、男女身分の差無く多数の民衆観劇し、挙って当社に参詣慰霊に訪れたと云う。 「お初天神」と通称される所以である。 社頭掲示板 |
露天神社 社伝によると、当社は上古、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀りご鎮座されたと伝えられており、「難波八十島祭」旧跡の一社である。曽根崎(古くは曽根洲と呼ばれた)の地名は、この御神名によるとされている。 創建年代は定かではないが、「難波八十島祭」が文徳天皇の嘉祥3年(850年)にまで遡ることができ、六世紀の欽明天皇の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察できる。 なお、承徳元年(1097年)に描かれた「浪華の古図」には、当社の所在が記されている。 南北朝期には「曽根洲」も漸次拡大し、地続きの「曽根崎」となった。この頃、北渡辺国分寺の住人・渡辺十郎源契(河原左大臣源融公十一世渡辺二郎源省の末)や渡辺二郎左衛門源薫ら一族が当地に移住し、田畑を拓き農事を始め、当社を鎮守の神とし曽根崎村を起こした。 以後、明治7年(1894年)の初代大阪駅、明治38年の阪急電鉄梅田駅の開業などとともに地域の発展に拍車がかかり、当社も大阪「キタ」の中心、梅田・曽根崎の総鎮守として崇敬を集めるに至っている。 由緒書 |