JR長居駅西200m、鎮座地は若干の台地で街中の神社である。 創建年代は詳かではないが、『住吉大社神代記』に子神として「住道神」というのが二神あるが、その一つが「神須牟地神」に当ると考えられる。 社伝によると古来酒造の神として、又、医薬の祖神として衆庶の崇敬厚く、延喜式にいう新羅入朝の際賜う神酒を醸造した住道社は当社であるとする、又、同式臨時祭の八十島祭に預かる住道神二座の内一座は当社という。 当社は遷座を繰り返しており、原社地は不明である。上町台地から泉北丘陵への陸地は古代からあり、そこに難波砂堆ができたり、諸川から運ばれる土砂が堆積して大阪平野が大きくなっていったが、それに合わせて道路も伸長し、それに相応して社地も動いたのであろう。 境外社に式内社の多米(ため)神社がある |
由緒 延喜式内の古社であって、三の宮と称され、遠く二千年前の御創建である。 御祭神は、主神(神産霊大神、手力雄命、天児屋根命)、相殿(天日鷲命、大己貴命、宇賀魂命)、追祀(少名彦命、素盞嗚命、住吉大神)である。 本社は古来酒造の祖神として将又医薬の祖神として衆庶の信仰厚く、又文武両道の守護神として御神徳顕著であった。 社領は住吉大社二万二千石の中の三百七十五石余りであったが、社領減地の節没収されたと記されている。 本社殿は慶長年間、兵火にかかったが豊臣の浪人であった多賀谷氏、秦氏、小山氏、岡田氏等の協力のもと再建し、元和四年八月二十一日、遷座の式が挙げられ、この日を祭典の日と定められている。 元文元年9月、徳川幕府は本社および多米神社の廃滅に瀕せしを憂い幕吏菅廣房に命じ「神須牟地社」「多米社」と刻せる石碑二基を双方の地に建立せしめられ、今尚現存している。境外末社多米神社は多米連の建てた神社と言われ、延喜式内の旧い社で、別名を「苗見神社」とも「種貸神社」とも言われ、又「鎮座の社」「苗見の森」「種貸の森」又はただ「明神さま」とも唱えられ浪速名所の一つに数えられていたのである。多米神社の御祭神は宇賀魂命、神稚魂神、保食神とされている。境内末社農神社は農耕の神として農民の尊敬厚く、今の長居墓地東北百米の三つの池の中央に土塀をめぐらし一本の松の木の下に社があったのである。農神社の御祭神は大己貴命。 当神社御祭礼日 [夏大祭(七月二十一日)、秋例祭(十月二十一日)、朔日祭(毎月一日)、月次祭(毎月十五日)、月例祭(毎月二十一日)、元旦祭(一月一日)、節分祭・厄除神事(二月節分の日)、七五三神詣(十一月十五日)、新嘗祭・勤労感謝祭(十一月二十三日)、大祓式(六月三十日・十二月三十一日)、その他祝祭日] 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
神須牟地神社由緒 延喜式内の古社であって三の宮と称され遠く二千年の昔の創建である。 御祭神 神産霊大神・天日鷲命・少名彦命 本社は古来酒造将又医薬の祖神として信仰厚く又文武両道の守護神として御神徳顕著であった。 本社殿は慶長年間兵火にかかったが豊臣の浪人多賀谷氏外4名の協力で元和4年8月21日再建された。 元文元年9月徳川幕府は本社および多米神社の廃滅に瀕せしを憂い幕吏菅広房に命じ「神須牟地神社」・「多米神社」と刻せる石碑二基を双方の地に建立せしめ今尚現存している。 境外末社 多米神社は延喜式内の古い社で別名を「苗見神社」又は「種貸神社」とも言われ崇敬された。 御祭神 宇賀魂銘・神稚魂命・保食神 境内末社 農神社は農耕の神として農民に崇敬された。 御祭神 大己貴命 社頭掲示板 |
神須牟地社・多米社の碑について。 神須牟地神社は延喜式内社で由緒ある神社で古来より三の宮と称えて信仰の厚い神社である。 慶長年間(1590年頃)大阪夏の陣の際兵火に罹り御社殿を焼失したが、当神社の豪族多賀谷氏他4名が協力して再建し、元和4年(1600年頃)8月21碑遷座した。 ゆえに当社では21日が御祭日になっている。 多米神社は古い豪族多米連が創建したと称せられ延喜式内社の古い神社で別名「苗見神社」又「種貸神社」とも言われ、又ただ「明神さま」と称して浪速の名所に数えられ農耕の神又子宝の神として崇敬があった。又言い伝えによると住吉大社の御田植の苗を当社で栽培したと言う。 元文元年(1730年頃)9月徳川幕府は神須牟地神社及び多米神社の廃滅に瀕せしを憂い、幕吏菅広房に命じて双方の地に神須牟地神社・多米神社と刻んだ石碑を建立し現存している。 社頭掲示板 |
神須牟地神社 ご祭神 主祭神 神産霊大神 手力雄命 天児屋根命 相 殿 天日鷲命 大己貴命 宇賀魂命 追 祀 少名彦命 素盞鳴命 住吉大神 由 緒 当神社は、延喜式内の古社であって三の宮と称され、約二千年昔の鎮座である。 古来より医薬の祖神・酒造の祖神として信仰が厚く、文武両道の守護神としても御神徳があった。 社領は、住吉大社二万二千石の中の三百七十五石余りであったが社領減地の節に没収されている。 本殿は慶長年間、兵火にかかったが豊臣の浪人であった多賀谷氏、秦氏、小山氏、岡田氏等の協力のもと再建し、元和四年八月二十一日遷座の式が挙げられ、この日を祭典の日と定められている。 元文元年9月、徳川幕府は本社及び多米神社の廃滅に瀕せしを憂い幕吏 菅 廣房に命じ「神須牟地神社」「多米社」と刻せる石碑二基を双方地に建立せしめた。この石碑は今も現存している。 多米神社 ご祭神 宇賀魂命 神和稚魂神 保食神 境内外末社の多米社は、多米連の建てた神社といわれ、多米連の祖を祀る神社とされていた 延喜式内の旧い社で別名を「苗見神社」「種貸神社」と言われ、「鎮座の社」「苗見の森」「明神さま」とも言われ浪速の名所の一つに数えれれていた。 御祭神に関しては、後に神須牟地神社へ合祀したとされる文献が残っており、古くより子孫繁栄、子宝の大きなご利益があったとされている。 公式HP |
神須牟地神社 鍬靭 神は加武と訓べし、(此帳中に神某といふを、加武某と読あり、美和某と読あり、意得べし、)須牟地は前に同じ、○祭神詳ならず〇寺岡村に在す、今三宮と称す、(摂津志)〇当郡中臣須牟地神社もあり 神社覈録 |