中臣須牟地神社
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   【延喜式神名帳】中臣須牟地神社(大 月次/新嘗)摂津国 住吉郡鎮座

   【現社名】中臣須牟地神社
   【住所】大阪府大阪市東住吉区住道矢田2-9-20
       北緯34度36分14秒,東経135度32分20秒
   【祭神】中臣須牟地神 (配祀)神須牟地神 須牟地曽祢 住吉大神
       昭和27年4月3日付神社規則で表筒男命・中筒男命・底筒男命・息長帯比売命・神須牟地神・住街曾根神

       住道首に代表される在地氏族が奉斎していた祖神に、中臣氏の祖神を祀ったのが当社祭神であろう。


   【例祭】10月12日 秋祭
   【社格】旧村社
   【由緒】貞観元年(859)正月27日従五位上『三代実録』
       貞観五年(863)3月在原業平勅使として奉幣『三代実録』
       明治5年(1872)村社

   【関係氏族】中臣氏
   【鎮座地】現在の矢田北小学校のある場所が旧地との説あり

   【祭祀対象】道の神
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造
       拝殿・幣殿五・手水舎・絵馬舎

   【境内社】嚴島神社・楠神社・道祖社

矢田東小学校の東北の住宅地の中に鎮座する。
延喜式に新羅使来朝に際して、神酒を給するが、その酒を醸す料となる稲を各社から中臣須牟地神社にあつめられ酒を醸し、それを赤留比売命神に神酒を献げる形で外客接伴の饗宴が行われた。
八十嶋祭に際して、住道神二座は住吉神・大依羅神・海神・垂水神とともに座別の幣帛を受ける。
「住道」とは、住吉津より喜連に通ずる「磯歯津路」であり、その沿道の要所々々に祀られたのが住道神。
中臣氏の祖先の天種子命一族が在住、藤原不比等が祖神をあわせ祀ったと伝える。


由緒

平安時代に定まりました延喜式と申す規則によりますと、当社は勅使のおまいりなさっておられました大社であることが明らかであります。これは戦前の官幣大社と同格でありまして、当代一流のお宮でございます。もちろんこの規則のきまるずっと前から堂々たる大社であったはずでございます。南北朝時代から室町時代にわたる長い間の戦乱によって、しだいに当社の御由緒は忘れられてしまったようです。当社は、中臣(ナカトミ)氏の祖先であり神武天皇にお仕え申された天種子命(アメのタネコのミコト)をはじめ、その御一族や御子孫のかたがたが、二千数百年以上もの昔から在住せられた誠に由緒ある地の神社でございます。大化改新には、この中臣氏から藤原鎌足公があらわれて大きな手柄をお建てになりました。また御子不比等(フヒト)公をはじめ御子孫の中には、奈良から京都へとつねに天皇さまのおそばにお仕えして、歴史上重要な役目をはたされたかたがたが多いのであります。藤原不比等公は勅命をお受け担って、大昔から中臣氏の根拠地であった当地に、御先祖をあわせまつられたのでございます[社記]。もちろん中臣氏は、朝廷の祭祀をうけもつて来たのですから、ごく古い時代からここでお祭りをおこなうていたのは明らかであります。考古学の研究によりますと、当地は、畿内での弥生式農耕文化の発祥地であり、弥生式文化時代全体にわたる広大な住居地であります。ここに発達した農耕文化は、紀元前後には畿内全体に広がり、三世紀ごろには日本全体に影響したといわれます。祟神天皇はここにわが国最古の依網(ヨサミ)池を作られ、埀仁天皇は最大の狭山(サヤマ)池をつくられて、年々豊作が続き、やがて朝廷のいきおいは朝鮮半島にまで及びました。応仁天皇の御代に、大陸の人達が、本国の戦乱をさけて平和な我が国に新しい大陸文化を伝えました。わが国内は、神をまつる固有の信仰で固く結ばれ幸せに暮らしていましたから、その人たちも当社の神酒を賜うて、神にかよう穢(ケガレ)を祓(ハラ)いました。[延喜式]忌部記文にも、「スムチ(当社)の神酒を賜うて穢を祓わない者は日本人ではない。」と申しております。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




叢社記

河内國丹北郡中臣住道神社者、人皇十五代神功皇后三韓責給、中臣雷臣爲軍師、諸神配軍札、諸神之依勲功三韓平帰朝之御時、從筑紫茅淳浦寄御船給、淺澤小野地等宮作而遷神給、今之住吉大明神也、此時相從人々領河内各々居住之地、崇住吉御神、氣長姫尊、畝傍香山之取土、作平手、祭住吉大神、其時住道連等入館給、而通神之災是成捨松給歴星霜旧之松朽、今其所云笠松、同木之芽當社之神木是也、住道神社者其随一也、其後平賀神事、住吉神官当社而必詣倍從之、其体所宮地巽、曰有古松也、天児屋根命十九世常盤大連公初而賜中臣姓、本者卜部家也、此人神事司之爲宗源、其苗裔中臣住道連等相続祭來延喜式中臣須牟地神社大月式與新嘗爲記、摂河泉者上古几河内州也、從延喜以前人皇四十九代光帝御宇、摂津州割給、故住吉郡須牟地神社爲記、同式神須牟地神社與須牟地曾根神社有三社、按而神須牟地神社云者、中臣之當西曰天神山有所、彼式曰、奉鍬靱爲記、少彦名神、諸之種植于大和國、故献農具時者、則山城國五條天神也、若國家而有事者、此社掛靱也、上古五條之成本社云々、同曾根者、当北號住吉第二之社、今有凡新羅之客人吾朝者給神酒其醸酒料之稻、大和國賀茂、意富、纒向、倭文之四社、河内國恩地一社、和泉國安那志一社、摂津國住道、伊佐具二社、各三十束、合二百四十束、送住道也、次大和國片岡一社、摂津國廣田、生田、長田三社、各五十束、合二百五束、送生田社、並令神部造差中臣一人充給、酒使醸生田酒、於敏売給之、醸住道酒者、於難波館給之、若從筑紫還者、以使給酒者、則隠岐鰒六斤、螺六斤、螺四斤六両、海藻六斤、海松六斤、賜之云々、人皇十七代仁徳帝之臣百濟王仁、祭住道社曰祓穢、人皇二十二代雄略天皇招集文人、于時帰化天命穢之賓客壱萬八千六百七拾余人、遂賜祭酒、住道大首示□入神場之忌事令納礼、河内漢人高向村主詣住道瑞籬奉献初穂壷酒、以而爲君名異國之穢人吾來神明美國不耻爲民之、□賜自酒□御納、□□□□□、日本百姓等正住道駄氣枯者此謂也、故系氏者□正善悪住道也、住道同筋脉姓氏備考記、
因茲世挙號系図納于當社云、経年暦或回禄、邑侶不得知事案、故村司等旧社之來由在事、朝暮雖念思終不得其期自然考古書或尋社職縁考正也、所謂中臣住道神社、後于誤而號住吉大明神也、
享保十有四龍集
己酉孟夏上旬
藤村重喜
同重連
同宗昌
三浦寛將
長澤元義
弘化三年丙午六月廿一日
現慈眼緯維清(花押)謹書

拝殿に奉掲の木額



中臣須牟地神社

式内社調査報告書の摂津国編や、湯里住吉神社社伝によると、この神社は元・磯歯津路(ほぼ長居公園通)と狭山西除天道川(西除川)が交差する圓明寺(※)のある場所の東北詰に、小高い丘(天神山)があり、その南麓(現在の矢田北小学校のある場所)に鎮座していたように思われます。
ここから南に240mの天道川の右岸に当たる場所に現在、妙宏山法華寺法悦閣があり、この寺の西塀を撤去して改築した時に、大量の川砂とシジミ貝が出土したので、江戸時代中頃までの天道川の川幅は、この辺りから西に100m余りもあったと推定できます。
また、この川を東西に横断していた磯歯津道の渡場跡の伝承があり、「天道の渡」と呼ばれていたとの伝承があります。 現在の神社はこの地点より、更に南580mに移転して、鎮座しています。
式内社調査報告書によれば、この地域には珍しい「大社」の社格をもつ式内社で、住之江に上陸した外国の使節を、磯歯津路に沿って飛鳥に案内する際に、近隣の神社から奉納された地酒を振る舞って、大いに使節団員を歓待した中心的な神社であったようです。
※ 圓明寺(真宗大谷派 法谷山(ホウヤサン))
式内社調査報告書では祭神は奈良時代に住吉大社の子社となっている(住吉神代紀、子神条)関係で、住吉四神(上筒男命、中筒男命、下筒男命、息長足比売)を主祭神としていますが、神社庁資料の「祭」には、現在の主祭神を中臣須牟地神のみとし、配祀として神須牟地神 須牟地曾禰神および住吉大神を記しているので、現在の神官は住吉大社からの独立を意図されているようです。 延喜式玄蕃寮によれば「往古に新羅(実は唐)の使節が来朝した際に、大和・河内・摂津の各神社から献上された稲を住道神に集め、ここで醸造した酒を難波館において、客に給した」とあるので、住道神が酒造りをしたことが判ります。
しかも、「神部造(カンベノミヤツコ)の『中臣一人』を遣わして、酒を給した」とあるが、当時、磯歯津路沿道の住道神の内で大社格を有していたのは当社だけであったので、中臣氏の派遣先は当然当社に限定され、社名も中臣須牟地神社となっているのであろうと考えられます。
また、社名の関係で、この地が中臣氏家筋の氏地であり、当社の南東210m(矢田中学校から西北)に藤原不比等の開基と言う「中臣住道(須牟地)廃寺跡」があるので、この寺と神社が氏寺と氏神の関係にあったとする説が有力です。

大阪市東住吉100物語



中臣須牟地神社 大月次新嘗

中臣は奈加登美と訓べし、」須牟地は仮字也、和名鈔、(郷名部)住道、(須無知)○祭神詳ならず〇住道村に在す、今住吉社と称す、河内国丹北郡に隷す、(摂津志)○姓氏録、(摂津国神別)津島朝臣より生田首まで八姓、みな中臣の枝別なれぱ、此中臣も右の枝別より出たる称なるべし、』また(摂津国未定雑姓)住道首、伊弉諾命男素盞鳴命之後者、○当郡神須牟地神社もあり
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授摂津國從五位下中臣須牟地神從五位上、
雑事
式廿一、(玄蕃)新羅客入朝者、給神酒、其醸酒料稲、摂津國住道社、三十束、送住道社、醸住道社、酒者、於難波館給之、(下略〇全文大和國葛上郡高鴨神社の條見合すべし)
連胤云、当社も八十島祭の一処也、式文住吉神社の條下見合すべし、

神社覈録



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