背後地の矢筈嶽を神体山とする。山頂には巨大な磐座があり、一段下つた踊場に、女の神様であるとの傳承をもつ箭筈神社の小祠がある。 しかし現在では山上の箭筈神社と山麓の加紫久利神社との間に奥宮・里宮というような特別な開係は認められない。 「式内社調査報告」で藤井重寿は「天平元年(729)7月22日勲七等を帯した大隅姶嬬郡少領加志君和多利が薩摩隼人の争乱にあたって、豊前加自久也里の部隊を卒いて出動し、肥薩国境の守備隊長としてその駐屯地に豊前国鎭守の大富神社の神霊を勧請司祭した。」と述べている。 |
由緒 当社は出水市下鯖町に鎮座しており、(主神)天照皇大神、(相殿)多紀理毘賣命・表筒男命・中筒男命・底筒男命・譽田別命(応神天皇)・息長帯比賣命(神功皇后)・伊邪那岐・伊邪那美命、(末社)神門神社・(南)豊磐窓神・(北)櫛磐窓神をお祀りしている。 御鎮座年代は詳らかではないが、遠く奈良朝の頃の創建といわれる。既に貞観2年(860)3月、薩摩国従五位下加柴久利神加五位上と三代実録に載せられて居る。延喜式には、薩摩国穎娃郡枚開神社(薩摩一の宮)薩摩国出水郡加柴久利神社と薩摩国では二社記載されて居り、古来薩摩に二の宮として代々朝廷の尊崇厚く信仰の中心であつた。 島津氏の治世になってからも特に薩摩の総社として尊ばれ、22代島津吉貴公は社殿を改築して六十石を與えている。 社殿は歴代藩主の修理、改造、再建等十余度に及び、明治6年県社として再興されたのちは神域広大にして神厳この上なく深く官民の尊崇するところであったが明治10年6月3日西南の役の兵火にかかり門守社以外の社殿、山神、神宝、古文書等灰燼に歸した。其の後、明治13年社殿は再興されたが地租改正又農地改革に依って境内地は縮小された。 そして戦後社殿は老朽し、老樹は虫害をうけて神域はとみに荒廃するに至つた。氏子一同神域の荒廃を座視するに忍びず、社殿の改築を計り、昭和36年3月、現在の社殿が創建されたのである。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
加紫久利神社 薩摩二の宮(式内社) 加紫久利神社 由緒記 鎮座地 鹿児島県出水市下鯖町2172 祭神 主神 天照皇大神 相殿 多紀理毘売命 表筒男命 中筒男命 底筒男命 誉田別命(応神天皇) 息長帯比売命(神功皇后) 伊邪那岐、伊邪那美命 由緒 御鎮座年代は詳かではないが、遠く奈良朝の頃の創建と云われる。既に貞観2年(860)3月、薩摩国従五位下加紫久利神加従五位上と三代実録に載せられて居る。延喜式には、薩摩国頴娃郡枚聞神社(薩摩一の宮)薩摩国出水郡加紫久利神社と薩摩国では二社記載されて居り、古来薩摩二の宮として代々朝廷の尊崇厚く信仰の中心であった。 島津氏の治世になってからも特に薩摩の総社として尊ばれ、22代島津吉貴公は社殿を改築して六十石を与えている。 社殿は歴代藩主の修理、改造、再建等十余度に及び、明治6年県社として再興されたのちは神域広大にして神厳この上なく深く官民の尊崇するところであったが明治10年6月3日西南の役の兵火にかかり門守社以外の社殿、神山、神宝、古文書等灰熔に帰した。其の後、明治13年社殿は再興されたが地祖改正又農地改革に依って境内地は縮少された。 そして戦後社殿は老朽し、老樹は虫害をうけて神域はとみに荒廃するに至った。氏子一同神域の荒廃を座視するに忍びず、社殿の改築を計り、昭和36年3月、現在の社殿が創建され、さらに平成元年改築される。(御本殿に立派な鶴と亀の彫刻があることから最近では鶴亀神社として信仰が深い。 ●貞観2年3月20日 神階従五位上 ●貞観8年4月7日 神階正五位上(三代実録) ●明治6年 県社列格 加紫久利の信仰 ▲薩摩の総社としての加紫久利の御祭神は伊勢の内宮と同一神であり「天照大神」は日の神と尊び仰ぎ、「光明」「仁愛」「生命」「救済」「倖せ」の大親神であります。 ▲「多紀理毘売命」は天照大神の御女(むすめ)で宗像三女神の一で海上、陸上の交通安全の守り神であります。田心姫神とも云う。 ▲「表筒男命」「中筒男命」「底筒男命」は住吉大神と云われ、航海を掌る神即ち船魂の神であります。 (海、川の表面、中程、底部の守護神) ▲「誉田別命」は又の名を「応神天皇」とも云い八幡社の神で神功皇后の御子で両神の関係は母神の信仰があり母が子供を抱きかかえ、慈愛を以ってこれをはぐくみ育てる大愛を本願とされている。 ▲「息長帯比売命」は又の名を「神功皇后」とも云い、応神天皇の母君である。安産・慈愛・子育ての神として崇敬されている。 ▲「伊邪那岐、伊邪那美命」は摂社、伊勢神社の祭神で合祀された神である。二神の神は万物の生みの祖神として生命の祖神、延いては「延命長寿」の信仰がある。 ▲境内社 「稲荷大神」は五穀豊饒・商売繁昌・殖産興業の神であります。 由緒書 |
加紫久利神社 薩摩二の宮 加紫久利神社(式内社) 一、祭神 主神 天照皇大神 相殿 多紀理毘賣命 表筒男 中筒男命 底筒男命 誉田別命(応神天皇) 息長帯比賣命(神功皇后) 伊邪那岐命 伊邪那美命 末社 神門神社(南)豊磐窓神(北)櫛磐窓神 一、由緒 御鎮座年代は詳かではないが、遠く奈良朝のころの創建と云われる。既に貞観2年(860)3月薩摩国従五位下加紫久利神加従五位上と三代実録に載せられている。 延喜式には、薩摩国頴娃郡枚聞神社(薩摩一の宮)薩摩国出水郡加紫久利神社と薩摩国では二社記載されており、古来薩摩二の宮として代々朝廷の崇敬厚く信仰の中心であった。 島津氏の治世になってからも特に薩摩の総社として尊ばれ、22代島津吉貫公は社殿を改築して六十石を與えている。社殿は歴代藩主の修理、改造、再建等十余度に及び、明治6年県社として再興されたのちは神域この上なく深く官民の尊崇するところであったが明治10年6月3日西南の役の兵火にかかり門守社以外の社殿、神山、神宝、古文書等灰燼に帰した。 その後、明治13年社殿は再興されたが、地租改正又農地改革によって境内地は縮小された。 そして戦御社殿は老朽し老樹は虫害を受けて神域はとみに荒廃するに至った。氏子一同真意気野荒廃を座視するに忍びず、昭和36年社殿を改築、さらに平成元年12月改築される。 一、祭儀 大祭 春季大祭(祈年祭)3月4・5日 大祭(御田植祭)6月22日 秋季大祭(新嘗祭)11月23日 中祭 歳旦祭、紀元祭、天長祭 小祭 朔毘祭、月次祭等年30回 社頭掲示板 |