枚聞神社
ひらききじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】枚聞神社 薩摩国 頴娃郡鎮座

   【現社名】枚聞神社
   【住所】鹿児島県指宿市開聞町十町1366
       北緯31度12分28秒、東経130度32分25秒
   【祭神】大日霊貴命
       (配祀)天之忍穗耳命 天穗日之命 天津彦根命 活津彦根命 熊野樟日命
       多紀理毘賣命 狹依毘賣命 多岐都比賣命

   【例祭】10月15日 例大祭
   【社格】旧国幣小社 薩摩国一宮
   【由緒】和銅元年(708)薩摩一ノ宮として創建
       貞観2年(860)3月従四位下
       貞観8年(866)4月従四位上
       貞観16年(874)7月噴火奉封二十戸
       元慶6年(882)正四位下
       仁和元年(85−85)10月9日噴火焼炎
       建久8年(1197)大隅正八幡と相論
       正治2年(1200)社殿再興
       天正20年(1592)島津家田畠二十四町歩を寄進
       慶長15年(1600)9月島津氏によつて再興
       明治4年国幣小社

   【関係氏族】
   【鎮座地】はじめ開聞の南麓に鎮座
        貞観や仁和の火山活動時代に現在の開聞北麓に遷座した

   【祭祀対象】本来は開聞岳を祀る
   【祭祀】
   【社殿】本殿権現造
       幣殿・長庁・拝殿・神饌所・勅使殿・手水舎・門守舎・社務所・神庫

   【境内社】御嶽神社・川上神社

祭神は諸説あるが、開聞神=航海守護神=塩土老翁=猿田彦という過程をもつて自然神から人格神へと発展した姿が偲ばれる。
社は古く神代に創祀されたものとして、記紀の山幸彦龍宮遊行傳説の海神豊玉彦の宮地であつたと説く。
これとは別に本社が天智天皇ゆかりの社として開聞神を現出したとする。
開聞岳の麓の岩屋で或る仙人が修行をしていると、或る日、一頭の鹿が現れ、法水を呑んだ鹿は忽ち懐妊して一人の姫を産んだ。名前を瑞照姫と言った。
姫は大層麗しく、その美貌の噂は遠く都にまで届き、僅か2歳で上京、藤原鎌足に養育され13歳で宮中に召され、天智天皇の妃として寵愛を受けたが、他の女御たちに嫉まれ郷里へ舞い戻ったという。
奥宮として開聞嶽頂上に鎮座の御嶽神社がある。
当初開聞岳の南麓にあったようだが貞観年間の噴火によって、北麓へ遷座されたという。


由緒

祭神 大日ルメ貴命(天照大御神)を正祀とし、他に皇祖神八柱神を併せ祀るとあり。
神社の沿革
御鎮座年代を詳らかにせずといえども、社伝には遠く神代の創祀なりと伝う。既に貞観2年3月、薩摩国従五位下開聞神加従四位下と三代実録に載せられて居るのを始めとして、同書には数度の神位昇叙の事を記され、殊に貞観16年7月には開聞神山の大噴火の状態を太宰府より言上、神意を和むる為勅命により封戸二千を奉られたことを記載している。
延喜式には薩摩国頴娃郡枚聞神社と枚聞の文字を用いられている。古来薩摩国の一宮として代々朝廷の尊崇厚く度々奉幣あり、殊に島津氏入国の後はその崇敬絶大にし、正治2年社殿再興以来、歴代藩主の修理、改造、再建等十余度に及び、元亀2年頴娃領主家の内乱により1900余町の神領を失ったのを、天正20年9月には島津家より改めて田畑合計24町歩を寄進され、旧藩時代は別当寺瑞応院と共に祭祀を営んで来たもので、明治御治定の折同4年五月国幣小社に列格仰出され、現在薩摩の国一宮として、又神社本庁所属別表社として地方の崇敬を集めている。
一般の信仰
南薩地方一帯の総氏神として又地方開拓の祖神として厚い崇敬が寄せられて居るが、特に交通安全、航海安全、漁業守護の神として附近航行の舟人等から厚く信仰されて居る。往年島津家に入貢していた琉球人等は特に航海中開聞岳の雄姿を遥かに拝するや神酒を奉って無事を祈ったものの由、現に神社には琉球王の名に依って航海安全の神徳を奉謝して献納された額面等が数面保存されて居る。その他旧23日には他国に出稼ぎに出かけて居る肉親の人達の無事安泰を祈ってお参りする風習が今でもなほ氏子崇敬者の間に盛んに続けられて居る。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




枚聞神社

御鎮座年代は社伝によれば遠く神代の創祀という。既に貞観2年3月、薩摩国従五位下開聞神加従四位下と三代実録に載せられているのを始めとして、同書には数度の神位昇叙の事が記され、殊に貞観16年7月には開聞神山の大噴火の状態を太宰府より言上、神意を和める為勅令により封戸二千を奉られたとある。延喜式には薩摩国頴娃郡枚聞神社と今の枚聞の文字を用い、加紫久利神社と共に薩摩国式内社の一社として記載されている。
古来薩摩国一宮として代々朝廷の尊崇厚く度々奉幣あり、殊に島津氏入国の後はその崇敬絶大にして正治2年社殿再興以来、歴代藩主の修理、改造、再建等十余度に及び、元亀2年頴娃領主家の内乱に依り1900余町の神領を失ったが、天正20年9月には島津家より改めて田畠合計24町歩を寄進され、旧藩時代は別当寺瑞応院と共に祭祀を営んで来たものである。
また琉球人の崇敬も厚く、琉球王の名によって航海安全の神徳を奉謝して献納された額面が保存されている。
明治4年5月国幣小社に列せられ、現在薩摩国一宮として近隣の崇敬を集めている。

鹿児島県神社庁



枚聞神社

枚聞神社及び付近案内 鎮座地 鹿児島県損宿郡開聞町十町
御祭神 枚聞神一座 神社由緒記に大日霊貴命(天照大御神)を正祀とし他に皇祖神を併せ祀るとある。
御沿革 御鎮座年代を詳かにせずと雖も社伝には遠く神代の創祀なりと云う。既でに貞観2年薩摩国従五位下開聞神加従四位と三代実録に載せられているのを始め延喜式には薩摩国枚聞神社とある。
古来薩摩国の一の宮、南薩地方一帯の総氏神として代々朝廷の尊崇厚く度々奉幣あり、殊に藩主島津家代々の崇敬絶大にして歴代藩主の修理、改造、再建等十余度に及び地方開拓の祖神として、又特に厄除、開運、交通安全、航海安全、漁業守護神として琉球国を初め地方民の崇敬篤に厚く明治4年国幣小社に列格せられた古社である。
御例祭 10月15日
宝物 国指定重要文化財 「松梅蒔絵櫛笥」外数十点あり、「最古の大酒甕」拝観可
付近名勝
開聞岳 標高934m、二重式火山 頂上に当社末社御嶽神社鎮座
玉乃井 日本最古の井戸、龍女豊玉姫命水汲みの井戸と云う。
聟入谷 彦火火出見命と豊玉姫命のご結婚の跡と云う。
池田湖 周囲約20Km、九州最大の淡水湖

社頭掲示板



枚聞神社

枚聞神社 ひらききじんじゃ 鹿児島県指宿郡開町十町。旧国幣小社(現、別表神社)。祭神は、大日霊貴命、天之忍穂耳命・天之穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野樟日命・多紀埋毘売命・狭依毘売命・多岐都比売命の合計九柱。社伝によれば、当社の創建は古く神代にさかのぼるという。また別伝の山緒記によれば、聖武天皇の御世に、薩摩国一の宮として創建されたともいわれている。『三代実録』によると、貞観2年(860)3月20日、従五位上開聞神に従四位下が、また同8年4月7日、従四位上が授けられた。同16年7月2日の条には、開聞神の祟りにより開聞岳山頂の噴火があり、封二〇戸が奉られたと記されている。元慶6年(882)10月9日、正四位下が授けられ、仁和元年(885)には奉幣が行われた。延喜の制に至り、小社に列せられた。
また薩摩邦一の宮として、崇敬を集めた。
島津氏入国以後は、歴代の崇敬特に篤く、正治2年(1200)8月、島津忠久公による社殿の再興をはじめ、修理・改造・再建等、10余度に及んだ。現在の本殿以下の社殿は慶長15年(1610)の、再興で、天明7年(1787)、島津重豪公の改造に係る。往古、当社は近郷各郷に228町歩の神領を有していたが、元亀2年(1571)の兵火により、古記録や神領関係文書等を焼失、そのため、神領散亡するところが多かったが、天正20年(1592)5月、島津家より田畑二四町歩の寄進があり、社運また旧に復するに至った。また当社は、特に琉球方面の人々の崇敬篤く、神徳讃仰の誠意を文学に表わした流球王名の奉納額面が数枚残っている。往時、島津家に入貢した琉球の船人等は、遥かに開聞の山容を拝するとともに、航海の安全を祈ったという。明治に至り、4年(1871)5月14日、国幣小社に列せられた。例祭10月15日。例祭前夜祭には、古伝神舞が奉奏される。

神社辞典



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