川の水を使つての農耕、その水源に神を祀つたのが当社で、その川を宮川と称した。境内を流れる宮川が、祭祀の起源と考えられている。 本殿横に大岩に囲まれた五坪程の龍王淵がある。この淵には大鰻が住み、淵の水は清らかで昔より澗れた事がないといい、岩上に鰻淵龍王を祀る祠がある。昔、旱魃の時、村人が淵水を汲み、供物をささげ法経を読む。すると、淵に常は姿をみせない鰻が現れる。それが黒鰻であると日ならずして雨が降り、白鰻であると雨なしと伝えられている。 |
由緒 大水上神社由緒略記 香川県三豊郡高瀬町大字羽方 御祭神 大山積命・保牟多別命・宗像大神 延喜神名式に「讃岐国三野郡小大水上神社」とあり、香川県内二十四社の一にして、一宮田村神社に次ぎ第二の社として「讃岐二宮」の称がある。 三代実録によれば、貞観7年10月従五位上より正五位下に次いで同17年5月正五位上とある。景行天皇の御孫子武殻王当社を尊信し三野、豊田両郡を社領とし給い、延暦二十三年弘法大師入唐の際、参篭祈願し後小松天皇、後花園天皇、称光天皇より勅書を給わり、又源平屋島の戦に両氏戦捷を祈願せり。 皇室を初め武門武将並国中の崇敬篤く「建久9年二宮社領目録」によれば、二百町歩を有し一大荘園として勢力あり、古く恒例臨時の造営用途等公武官司の正税を以て之を弁す。建長年中の大造営に次ぎ、応永末年社殿大破したる時、朝旨により讃岐一円に人別銭を、永享年間に於いては国中の用脚を以て再建し、江戸時代に至っても累代藩主の崇敬深く、京極氏は社領三十石を寄せ奉る。 明治5年郷社に、昭和8年県社に昇格す。而して室町時代の作と伝えられる随神像、建久9年の社領目録、建長年中源平両氏の願文、応永34年・永享年間の御造営記、天正2年神事次第、宝永6年二宮旧記目録等を残す。昭和7年史蹟指定の二宮窯跡、康永四年県指定文化財石燈篭がある。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
大水上神社 祭神 大山積命・保牟多別命・宗像大神 太古より水霊神として信仰厚く延喜式内で讃岐二宮と伝えられている。 社の鎮座する宮川流域は弥生の遺跡が多く境内は古代祭祀遺跡の宝庫。 御本社の奥に夫婦岩と称される岩座がある 社頭掲示板 |
時雨燈籠 高瀬町南部二ノ宮地区の大水上神社拝殿前にある石の燈籠。康永4年(1345年)に造立されたもので、あわせて願主、石工なども明らかにされた貴重な文化財です。特に、竿に雲龍文様の彫刻を配する作例は全国でも珍しい。 大水上神社境内には平安時代後期の2基の窯跡も現存している。 http://www.niji.or.jp/public/t-ikusei/takase.html |
大水上神社 大水上神社(おおみなかみじんじや) 香川県三豊郡高瀬町羽方二宮中。旧県社。大山積命・宗像大神・保牟多別命(応神天皇)を祀る。 一説に祭神を大山積命とするは非説という(『特選神名牒』)。『皇太神宮儀式帳』に「那自売神社、大水上御祖命、形石坐」「大水神社一処、称大山罪乃御祖命、形無」「牟弥乃神社、大水上児寒川比古命、寒川比女命、形無」とある。讃岐の式内社大蓑彦神社は寒川郡にあるから、『儀式帳』の牟弥神社(大神宮末社)の祭神と合せ考えて、この大蓑彦神は寒川比古寒川比女命の父大水上神と同一である(『官社考証』)。神宮末社の那自売神社祭神の大水上御祖命もまた大水上神と同一である。大水神を大水上明神と名く(『神祇志料』)神宮摂社大水神社祭神は大山罪乃御祖命とから、ある大水神・大水上神・大山祇は同一神と考えられるが、なお考究を要するであろう。当社は延喜の制小社に列した古社であり、讃岐二宮と呼ばれる。貞観7年(865)正五位下をうけ、同17年正五位上を加え、承暦4年(1080)大水上神の崇あるにより、社司に中祓を科せられる。朝廷のみならず領主藩主累代の尊崇篤かった。例祭10月5日。 神社辞典 |