嘉吉2年(1442)の「大水主神社供僧座配之事」には僧坊42宇を数えたことが記されており、また、社家は75員であつたという。江戸初期生駒氏の改易により社田を没収され、後松平氏が入部しても社領復旧の沙汰なく、累年当社は衰微していった。 宝永6年(1709)三代頼豊により社田も元の様に三十五石を寄進され、社殿も修造された。 |
由緒 当社は大水主大明神又大内大明神と言われ文武、元明天皇の時代より「洛陽の坤の方なる讃岐の国に霊地あり、大水主御社と号す」と言われていました。 創祀は遠く孝霊天皇の御宇にして一説には、宝亀年間の勧請と誤伝していますが、再建の年にして祭神は孝霊天皇の皇女「倭迹々日百襲姫命」で七才の年に大和の国黒田の盧戸より出て八才の時東讃引田の安戸の浦に着く御殿、水主に定め造営せられたとあります。 土地の人は、ここを「大内」と呼び昔日の大内郡の郡名大内町の町名はここに起源となると言われております。 じ来各時代多くの変遷を経、現在に至って居り、明治34年3月27日国宝となった木造狛犬2点(運慶作)木造御神像8点雷文螺鈿鞍一背大般若経入白木面塗函60点の外県指定の文化財社宝も数多く秘宝しております。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
水主神社 弥生時代後期、女王卑弥呼の死後、再び争乱が繰り返され、水主神社の祭神倭迹々日百襲姫命は、この争乱を避けて、この地に来られたと伝えられています。姫は未来を予知する呪術に優れ、日照りに苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けたと言われています。 境内は県の自然環境保全地域に指定され、付近からは縄文時代の石器、弥生・古墳時代の土器が多数発見され、山上には姫の御陵といわれる古墳もあり、宝蔵庫には多くの文化財が納められています。社殿はすべて春日造りで統一されており、社領を示す立石は大内・白鳥町内に今も残っています。 與田寺へ向う途中の弘海寺付近には昔有名な「石風呂」があり、宿屋が栄え、「チンチン同しに髪結うて、水主のお寺へ参らんか。」とこどもたちが歌ったほどにぎやかな土地でありました。 社頭掲示板 |
水主神社 水主神社(延喜式内社) 御祭神 倭迹々日百襲姫命(日本書紀) 夜麻登々母々曽毘売命(古事記) ◎倭迹々日百襲姫命 奈良県黒田慮戸(現在の奈良県磯城郡田原本町黒田)に居を定める。御年七才より黒田を出、八才にて水主宮内に着き給う。成人まで住み給いて農業・水路・文化の興隆成し水徳自在の神と称へられ奈良時代にはすでに神社形成をなしていた。 ◎水主三山(熊野三社) 山嶽信仰 増吽僧正が遷宮すると伝えられる。 ● 新宮神社(虎丸山)御祭神 伊邪那美命(国生冥界との深き神) ● 本宮神社(本宮山)御祭神 早玉男命(禊祓を司どる神) ● 那智神社(那智山)御祭神 事解男命(龍神(水)・食物豊穣司どる神) ◎水神社 御祭神 水波女命(井戸を司どる神) ◎水主神社別当寺 大水寺(開基は不詳) 水徳山宝珠院神宮寺、寛文年中に大水寺と改める。 本尊は、 阿弥陀如来(円光寺へ) 不動明王、二童子(与田寺へ) 十一面観音(坂手・観音寺へ) ● 江戸末期まで、神仏混合 ● 明治元年3月、神仏分離令 ● 明治2年2月25日、正式に廃寺となる。 ◎伝教大師 最澄(767〜822) 延暦9年(24才の時)水主神社・大水寺に参籠する。 比叡山延暦寺創建す。(22才の時)天台宗 ◎弘法大師 空海(774〜835) 水主神社境内地に於て閼伽井水を掘り水主神社に奉献する。 高野山金剛峰寺・善通寺・真言宗 (現在の閼伽の井戸) 社頭掲示板 |