忌部氏の創建との伝えがあり、忌部氏が阿波国もしくは安房国より来住・勧請したのでアハ居と称したといわれる。又、忌部氏が粟を傳へ、粟をはじめ五穀が豊かに実るので粟井の名がついたともいう。 社地も含め近辺から彌生時代の石庖丁・銅剣他の遺物、古墳・武器他多くが集中して発見されており、原始より有力な集落の形成が考えられている。 岩鍋池の南岸、現在の社地より南へ五〜六丁の地に、昔の社があつたと伝える。土地の人は旧地を古宮と呼んでいる。 かつての鎮座地は、現在の鎮座地より南方約600mの所という。大同2年(807年)に焼失し、寛弘元年(1004年)に杉尾神社(現・粟井神社境内社杉尾神社)の地(現在地)に遷座したという。 |
由緒 御祭神 天太玉命 相殿 天照大神 月読命 保食神 由緒 上古、讃岐は西讃を中心として讃岐忌部の氏族が開墾殖民の業に努力した土地であります。従ってこの忌部氏は自分たちの祖神である天太玉命を氏神として齋き祀り、同胞的精神を呼び起こして一致団結をはかりました。忌部氏の精神生活の目標になったものは、西讃の南隅に鎮座まします粟井の御社でありました。 この神社は、古くは刈田大明神とも称え奉り、刈田一郡を以て神供料に当て奉りましたので、郡名を神田郡といったとも言われています。後の豊田郡がそれで如何に御神威の宏大であったかを察することが出来ます。 社伝によれば、忌部氏の天日鷲命より31代目の武持の二男久名という人が本社を奉遷したとありますが、年代は上古とのみで詳かではありません。 古くは現在の鎮座地より南方約600m位の処に祀られていましたが、天火にかかりて今の処に遷座せられたと語り伝えられています。 古記録で明らかなものをたどれば、『延喜式神名帳』に、「讃岐国刈田郡粟井神 名神大。」とあり、『続日本後紀』に「承和9年11月乙卯 讃岐国粟井神名神に預る。」とあり、讃岐延喜式内二十四社の一社であり、特に神名・大社として崇められました。この神名とは国家の重大事が起きた時、国家の安泰を祈るため国が奉幣して臨時の祭祀を行なうわけですが、この臨時際に預る神のことであります。『延喜臨時祭式』の名神祭285座の内に、「粟井神社一座 讃岐国」と載せられて、讃岐には事実名神祭に預らせ給いしは粟井神社一社のみであります。 『三代実録』に「貞観6年冬10月15日戊辰 讃岐国正六位上粟井神 従五位下を授く。」とあり、『讃岐官社考証』に「永徳元年には正三位に昇り給う。」と書かれています。このように、御神徳いや高く万民に尊崇されていたことがよくわかります。 明治12年に県社に列せられ、明治40年3月22日、神饌幣帛料供進神社に指定せられました。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
粟井神社 祭神は天太玉命 古くは刈田大明神と奉称した。807年(大同2)火災にあい、当地杉尾山に遷座されたといわれる。842(承和9)に名神社に列せられ延喜式では讃岐国の大社3座の一座となる。天正年間長宗我部軍の兵火にあったが、江戸時代には領主生駒家、京極家の崇敬篤く、社殿の造営や社地の寄進をうけた。その後幾度も修復が行われ現在に至っている。 社頭掲示板 |
粟井神社 粟井神社は 延喜式内名神大社で御祭神は智に優れ政に秀でた天太玉である。創建年代は詳らかではないが続日本紀に「承和9年(842)粟井神名神に預かる」と記され平安期初頭既に名神に列するほどの名社故に讃岐最古と推測される。また延喜臨時祭式の名神祭285座の内に「粟井神社一座讃岐國」とあり粟井神社は当時の讃岐に於て唯一名神祭に預かる社であった。このように讃岐屈指の格式を誇る当社は古くは刈田大明神とも称され旧刈田一郡の総氏神として神威は広大であったが世の移ろいと共に次第に盛時の面影を失い明治12年(1879)縣社に列せられるにとどまった。 古記録によると創建時の社殿は今より五丁程南に在ったが大同元年(806)に焼失寛弘元年(1004)現在地に遷座したとある また天正6年(1578)にも土州軍による藤目城襲撃の兵火で社殿宝物等を失うが元和6年(1620)讃岐国主生駒正俊によって本殿が再建されたのである。爾来380年歴代丸亀城主や氏子は懸命に社殿の修復維持に努めたが近年その老朽損傷は極限に達した。これを憂えた有志は社殿建設奉賛会を発足させ広く氏子の理解協賛を得て平成の大改築を実現したのである。千木高く新社殿は平成11年2月着工以来二年有余を要し同13年5月竣工したがこの大事業はすべて氏子崇敬者の奉賛寄進によるものである 茲に 粟井神社の御神徳と氏子k崇敬者の敬神の念を称え記念の碑を建立し永く伝承するものである 社頭石碑 |
粟井神社 粟井神社(あわいじんじゃ) 香川県観音寺市粟井町。旧県社。天太玉命を本座とし、相殿に月読命・天照大神・保食神を祀る。『先代旧事本紀』に「天富命於安房地立太玉命社謂安房社是也、復手置帆負命孫造矛竿今讃岐地永貢八百竿之縁」とあるにより、『官社考証』に、讃岐忌部らが遠祖の長官である天太玉命を、天富命の立てた安房の社より奉遷したものである、という。よって粟井は安房居の義であろう。 往古、当地を刈田郡また神田郡といい、神田に充て、神稲を刈りとったがゆえである(『讃岐国綱目』)、と伝えられる。のち粟井八幡宮とも刈田大明神とも呼ばれた。神位は『続日木後紀』によれば、仁明天皇承和9年(842)名神に預り、清和天王貞観6年(864)従五位下を授けられ(『三代実録』)、醍醐天皇延喜の制、名神大社に列る。『延嘉式』)。例祭10月23日。 神社辞典 |