応神社
おうじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】於神社 讃岐国 苅田郡鎮座

   【現社名】応神社
   【住所】香川県観音寺市大野原町大野原1913
       北緯34度5分15秒  東経133度39分49秒
   【祭神】誉田別命
   【例祭】10月18日〜20日 例祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】古来よりこの地に鎮座

   【祭祀対象】本来は古墳を祀る
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

大野原八幡神社の境内に取り込まれていて、大野原八幡神社の境内社のように見受けられるが、中姫中央部落の中姫八幡神社の飛び地境内社となっている。
寛永年間(1624年-1645年)、平田氏により大野原八幡宮が鎮座すると、当社との間に境界争いが起きた。結局は丸亀藩の裁定を仰ぐことになり、境石を建て、紛争を解決した。


応神社

鎮座地 大野原町大字大野原字椀貸塚1913番地
祭神 誉田別命 (応神天皇)
由緒
古来椀貸塚の東腹に鎮座し中姫村の産土神として崇敬せられたり
伝うる所に據れば武内宿祢の裔 紀氏 この地を開拓して住し紀氏の尊崇厚かりし社と云う
亦 延喜式内 於神社は当社なりと伝えたり
寛永年間 平田氏により郷社八幡神社の鎮座するところとなり 当社が飛地なるが故をもって 屡々八幡社と境界を争いたるが 丸亀藩の裁くところとなり 境石を建て紛争も絶えたち 而して今猶 当社の祭典維持等は数町を隔てたる中姫中央部落の人々により之を取り行われるものなり
尚 当社は昭和23年5月1日宗教法人令により中姫八幡神社に所属するものとなりたる
例祭 10月18日〜20日 境内地 49坪8合5勺

社頭掲示板



大野原八幡神社

御祭神 足仲日子命 譽田別命 息長帶姫命
配祀 平田正重命 平田正澄命
例祭日 10月18・19・20日
御由緒
往古を偲ばせる腕貸塚・平塚・角塚の三大巨石墳や条里制遺跡などから古代社会の大野原は燧灘文化圏の中心的存在として発展し里人は腕貸塚を奥津城として、太子殿と称えて地主神を祀っていました。
宮文書によれば、9世紀頃には応神宮として祀られ、その後、大野原開発平田家三代源助正清が京都石清水八幡宮より、譽田別命を勧請、外二神を祭神として、元禄6年(1693)に本社・幣殿・拝殿を建立し大野原八幡宮の基が整いました。宝永6年(1709)秋の大祭から神幸祭が行われ、神輿三台、だんじり四台、獅子、鉄砲五挺、長刀、■■別当等100余名のオオ行列で神事が行われました。
以後約50年毎に御遷宮を行い今日に至っています。

社頭掲示板



大野原八幡神社

御祭神 足仲日子命(仲哀天皇)
    誉田別命(応神天皇)
    息長帯姫命(神功皇后)
    配祀 平田正重命
       平田正澄命
鎮座地 香川県三豊郡大野原町大字大野原
     字椀貸塚1913番地
例祭日 10月18.19.20日
御由緒
往古を偲ばせる椀貸塚・平塚・角塚の三大巨石墳や条里制遺跡などから古代社会の大野原は燧灘文化圏の中心的存在として発展していたと思われます。ここに、里人は椀貸塚を奥津城として、太子殿と称えて地主神を祀り、崇め奉っていました。西讃府志に「応神祠ハ椀貸穴ノ上ニアリ、一説ニ式内ナル於(うえの)神社是ナリトイヘリ。」とあることから、九世紀頃には、墳上に鎮座され、応神宮として祀られるなど、その縁起は悠遠の昔に起因していると考えられます。
その後、大野原は久しく荒廃していましたが、京都鹿ケ谷で大名貸しをしていた平田与一左衛門正重が丸亀藩主山崎甲斐守家治の許可を得て、寛永20年(1643)開墾事業を始めました。工事着手に当り「一夜霊夢に感じ一宮一刹を建立せり。大野原村八幡宮及慈雲寺是なり。」(三豊郡史)とあります。宮文書に応神宮屋根葺替とか、修築等の記録があることから、最初は応神宮を祀っていたと思われます。
その後開墾が軌道にのるにつれて、馬場を拡張したり、鳥居を建立したりして、里人の信仰が次第に深まっていきました。やがて、京都から平田家が一家を挙げてこの地へ移り、神社奉斎の業も本格化しました。宮文書によれば、三代平田源助正清は京都石清水八幡宮より、誉田別命(応神天皇)を勧請、外二神を祭神として、元禄6年(1693)大野原正八幡宮として本社、幣殿、拝殿を建立しました。以後約50年毎に御遷宮を行い、宝永6年(1709)秋の大祭には、御輿三台・だんじり四台・獅子・鉄砲五挺・長刀・慈雲寺別当等200余名の大行列で神事が行われたと古記録に残されています。
平田家全盛時代の、10代源治正節織彦の弘化4年(1847)に上棟された本殿・幣殿・拝殿の三殿と、補修された惣門が現存しており、最近では昭和32年(1957)に本殿屋根葺替が行われています。
社殿・古墳等
本殿
桁行一間、梁間一間の一間社入母屋造。屋根が大きく高く、本殿としての風格を備え、背後の古墳、椀貸塚の樹々の緑に映えて森厳の気に満ちています。弘化4年(1847)再建の棟札があります。
随神門 町指定有形文化財
三間一戸八脚門。前方両脇の間に随神像をおいているので随神門とよび、控柱が八本あるので八脚門ともよびます。中央二本の親柱は円柱で他の柱は角柱。享保9年(1734)建立の棟札、弘化4年(1847)補修の棟札があります。大野原八幡神社の玄関にふさわしく規模大で堂々とした門です。
大鳥居様式「春日鳥居」材質豊島石
神社に向って右柱に「奉建立鳥井一宇元禄六癸酉仲冬吉祥日」左柱に願主六名の名を刻んであります。文化元年(1804)大風で松が倒れ、笠石・貫石が折れたのを、翌年8月に再建した旨が右柱背面に刻まれています。均整がとれていて風格のある鳥居です。昭和57年に、南へ少し移転しました。
参道馬場
幅9mの参道両側、長さ60mにわたって続く松並木。天保5年(1834〉平田8世源治正宥寄進の馬場絵図が八幡神社にあります、延宝7年(1689)神事流鏑馬が再開されたと、宮文書に残っています。
椀貸塚 県指定史跡
八幡神社々殿真裏にある直径35mの浬(ほり)を巡らした大形円墳。南に開口した両袖式の横穴式石室は、県下最大の規模をもつ巨石墳です。古墳時代後期にこの地域一帯を主導した首長の墓であろうといわれています。塚の名称は、いわゆる「椀貸伝説」の伝承があることによります。
平塚 県指定史跡
椀貸塚の南620mにある直径53m、高さ7m、県下最大の円墳。墳裾部を巡る道路はかつての浬(ほリ)跡を示します。塚の名称は平らな墳頂部の形状からきたものと思われます。築造は7世紀初頃でしょうか。ここは八幡宮秋の例大祭のお旅所となりますが、その渡御行列は、今も江戸時代以来の格式に則って行われています。
角塚 県指定史跡
椀貸塚の南西430mにあります。その名が示す通り一辺43m前後の方墳と思われます。羨道10m余、玄室の長さ5.4m、幅2.5m、高さ2.3mで、壁面は巨大な一枚岩から成っています。

社頭掲示板



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