加麻良神社
かまらじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】加麻良神社 讃岐国 苅田郡鎮座

   【現社名】加麻良神社
   【住所】香川県観音寺市流岡町820-1
       北緯34度8分12秒、東経133度40分41秒
   【祭神】大己貴命 少彦名命
   【例祭】10月15・16日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】貞観6年(864)従5位下
       元亀天正の頃長宗我部元親四国に乱を起し焼失
       寛文8年(1688)再建
       明治5年郷社
       明治40年神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「丸山大明神」「五所権現」と称していた
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿・神輿庫・社務所、絵馬殿

   【境内社】

「山の名を御神室(おかみむろ)山と云う、大己貴、少彦名のニ柱の神四国御経営の時、此山に御座ましまして、地方ヲ御治め在らせし御霊跡なり」と伝承有り。
また、「昔、三野郡の大水上神社に少彦名命が来りて夜毎に泣き叫ぶ。大水上神は木桝に命を乗せて川に流すと、丸山の中腹に着き泣き止む。土地の人が命をその地に祭る。流岡の地名はこの事に、加麻良は神室に由來する」と伝承があり、当社はこの桝を御神体とし、丸亀藩主京極家が奉納したという金桝を伝えている。
この山は往古、御神室山と呼ばれ、大己貴命・少彦名命が四国を経営していた時に滞在したとされる霊跡とされる。そのため、四国最古の神社とも。


加麻良神社

当社は延喜式神明帳に讃岐の国刈田郡小加麻良神社とあり、明治5年郷社に列せられる。
古代の神社由緒記の残らざる故は元亀天正の頃長宗我部元親四国に乱を起し社寺を焼くこと甚しく当社の別当高屋町宝珠寺も之が災に罹り記傳を悉く焼失し、其の後西讃に百姓一揆起こり、役場学校を焼拂い旧別当宝珠寺も放火に罹り記仏を全部焼失してしまったが、その書類によれば
1.讃岐国官社考証に曰く
加麻良神社延喜神名式に曰く、讃岐国刈田郡小加麻良神社は高屋郷流岡村(式社考廿四社名目西讃府誌皆同)なる丸山と云う小山の上に存りて土人之を丸山神と云う祭神大山咋神と次 生駒証網目全讃史西讃府誌 或いは大己貴命一座なりとも 廿四社名目式社考西讃府誌 云う。
1.西讃府誌に曰く
加麻良神社祭神大山咋神とも大己貴命とも云えり。式内廿四社の一丸山に存り山の周り五丁五十間祭祀九月九日相傳う、昔神田村に千五百神の御子に貌いと少なくまして夜々泣き給うがありけり、父神忌みたまいて桝に入れて流しけるに此処の岡に着給い即ち鎮りましけり 此縁により流岡といえりとあり。
1.生駒記に曰く
昔羽方村二の宮の神千五百の御子の中にいと少くて夜々啼く神あり 父神恵み玉いて桝にいれて財田川に流しける 神此処の樫の木の本に流れ着き給う。其処を御神室と言う。即ち祭りて夜泣き子の夜泣き守護し給うとあり、此の神古事記に神産巣日神の御子にいと少くまくして手俣より落ちし神に少彦名神と言う神あり能く似たり今流岡村の氏神なり云々とあり。
1.立専寺過去帳に曰く
九十九の城主細川信行 長宗我部元親の為に滅亡し其の老臣横山源左エ門正祐此流岡に遁れ来り。当社を再建し及び立専寺を創立し終に此寺に遁世し慶長元年丙辰3月25日病歿したりとあり。
此過去帳に再建とあるは正しく天正年間にして此より後寛文8年の再建の棟札より、明治13年改築まで此の間葺替或は、境内末社の再建 営繕棟の棟札は神社に貯蔵し存すれども此に略す。
1.古老の伝説口碑に伝うるところを左に記載する。
昔此の丸山の麓なる川へ黄金の桝に乗りて泣きつつ流れ着玉う神あり。光明を放つこと不思議に思い近寄る人に のりたまうは 我を此山に祭れ 然れば夜泣をぞ守給うと依て祠を厳樫の本に建奉りしなり。此の神の流れつきし所を御神室と云う。今に存せりと猶其の樫の木は大木の古木にして幾千年と云うを知る人なきに明治18年大旱の折枯れたり。此処の古石を石宮と称す。
1.西讃府誌生駒記古老の伝説口碑に依り
謹みて考えるに 御神室は大和国 三輪御宝山の御室の古事に似ており 此神社の在る丸山と云う小山の総名なりしを山の形まんまるなれば丸山と云い傳えて御神室の只山の少名地となりしならむ。祭神も大和国三輪の御室山大神に由緒あればなり又相殿の神は桝に入れて流されたる神なるや今にいと古き桝の形の箱の内に御鎮座あり。遠近の人々夜泣きする小児を連れ参り三年の間氏子となり大祭には必ず参拝致す旨の祈願をなせば責任祈願となり。
之は少彦名神の御神徳により責任祈願により大願成就した氏子 崇敬者 小人に限らす大人にも之は万病に多大な御神徳があるので参客多く丸山大祭と 旧毎月十五日、廿八日の参客実に多し。展望台より西を眺めば瀬戸の内海はるかに眺められ 北方の七宝山の不動滝 東方 本山寺の五重塔や 南方の雲辺寺山望められ 風光明眉で筆言に尽し難し。

由緒書



加麻良神社

祭神 大己貴神 少彦名神
延喜式神名帳に讃岐の国刈田郡加麻良神社とあり三代実録に貞観6年従5位下とあり延喜式内社讃岐国24社の1社である「神社誌料」には「山の名を御神宝山と云う大己貴少名彦の2柱の神四国御経営の時この山に御座ましまして地方を御治らせられし御霊跡なり」とある。奈良県の大神神社と同じく四国の最古社であり祭神も同じ(神話も又三豊の式内社の位置神々の座を見ても社名地名すべて神宝山と深い関係にあり、両山とも山総てが清らかな山、神います山、空渡りくる神の山・神体山である。古老の伝説口伝によると昔神田村羽方二宮大水上神社に少彦名命が来りて夜毎に泣き叫ぶ大水上神は木枡に命を乗せて川に流すと丸山の中腹に着き泣き止む。土地の人たち光明を放つこと不思議に思い近寄る人にのり玉うは我を大己貴の神の鎮まるこの山に祭れ然れば夜泣きをぞ守給うと依りて祠を巖樫の本に建奉りしなり、この神の流れつきし所を御神室と言う今に存せり、樫の木は古木にして幾十年と言うも知る人無きに明治18年大旱の折り枯れたり。この処の古石祠を石宮と称す流岡の地名はこの事に加麻良は神室に由来する。大己貴神は父建速素盞鳴尊、母刺目若比売の御子で弓矢と剣それに舛を御神宝とし丸亀藩主京極家が奉納したという金舛を伝えている。「西讃府志」にも相伝う昔神田村に座千五百神の御子に■いと少くまして夜々啼玉う・・・父神悪み玉いて升に入れ流しける・・・」とほぼ同様の記事がみえ、大水上神社の千五百皇子社にも似た伝承がある。大水上神社と当社との関係は財田川水系に大いに関係あり丸山のすぐ北に財田川が流れ、財田川はこの地点で三野郡南部の豊中川と合流し全流域の水を集める事となり、北方に低湿地帯をなし洪水の痕跡も残る。又この地は満潮時には河水が抜けず淀んでいたともいう。

社頭掲示板



加麻良神社

御神室・石宮
神社誌料には、山の名を御神室と云う、大己貴神・少彦名神、四国御経営の時、此の山に御座まりまして、「地方を御治め在らせられし御霊跡なり」とある。
古老の伝説口碑に伝うるところ「昔、神田村羽方二の宮大水上神社に少彦名命が来たりて夜毎に泣き叫ぶ、大水上神は木桝に命を乗せて川に流すと、神室山の中腹(この下、石宮)に着き泣き止む、土地の人たち、光明を放つこと不思議に思い近寄る人に、のり玉うは「我を大己貴の神の鎮まる此山に祭れ、然れば夜泣きをぞ守給うと」依て祠を厳樫の本に建奉りしなり、此の神の流れつきし所を御神室と言う、又此処の古石祠を石宮と稱す。流岡の地はこの事に由来する、大己貴神と少彦名神は協力してこの四国を拓き、農工商すべての産業開発と、方除治病(夜泣き)造酒、製薬、交通、航海安全、縁結び等世の中の幸福を増進することを叶られました。人間生活の守護神であらせられます。

社頭掲示板



御神室

此処の古石祠を石宮と云う。
大古少彦名命の流れ着きし所神代の昔より樫の大木あり
明治18年の大旱の折、幾千年経し、樫の木枯れたり。

「御神室」「石宮」は少彦名神が流れ着きし所なり、流岡の地名はこの事に由来する。「我を大己貴神の鎮まる此山に祭れ、然れば(諸願成就)をぞ守給うと」
遠近の人々、石宮に参拝し、三年間氏子となり、大祭には必ず参拝致す旨の祈願をなせば、少彦名神の御神徳により大願成就する、これ責任祈願なり。

社頭掲示板



加麻良神社

祭神 大己貴神  別名(大国主神)一座
   少彦名神 相殿 一座
縁結びの神様
昔より「加麻良さんは夫婦でお詣りするもの」と言い伝えがあり、「良縁祈願」と「結婚奉告祭」はどうしても大国主神加麻良宮で絶大な加護がうけられますようになっています。
夜泣きの神様
「夜泣き祈願」「病弱、かん、ひきつけ、健康祈願」黄金の桝に乗って少彦名神は御神室に流れ着き「我を此山に祭れば、夜泣きをぞ守給う」と約束されました。
地鎮・方除の神様
「鬼門・金神そこのけ加麻良大明神(大国主神)」「加麻良の神主さんの赤御幣で金神・金縛り」という俚言が昔から広く言い伝えれれています。
地鎮祭は加麻良の清めの砂と「鎮物」「赤御幣」で八方の災禍を退けて常に清浄で安住が求められます。

社頭掲示板



讃岐国INDEXへ        TOPページへ



順悠社