式内社「山田神社」は、近世には所在が不明となり、一時は境八幡神社と考えられていた時期もあった。 |
境八幡神社 大化5年宇佐八幡宮の御分霊を奉祀せしに始る。 社記によれば、當地累年悪疫に苦しめらるること多く、郷人相謀りて大化5年宇佐八幡宮の御分霊を勧請し、柞田郷と姫江郷との境に鎮座して四境の悪病退散及び侵入防止の祈願を為せしに、緒疫頓に止み爾来當社は悪疫の憂なしと云ふ。 この事に依りて毎歳陰暦6月15日を以て氏子の者、昼夜参籠して加護を祈るを例とす。 山田八幡宮或いは境八幡宮と奉稱せられ、一説に、延喜式内山田神社は當社ならむと云へり。當地も山田尻村と称され、神社考に「八幡宮村社在山田尻大畠屬之」と見え、官社考証に「山田神社・・・・柞田郷山田尻村に山田八幡宮と稱ありて之ならむともいふ。式社考に観音寺ノ半里バカリ西ニ山田尻ト云あり、ソコノ社ナリト云云々・・・・黒淵村なる山田大明神社と山田尻村の山田八幡宮と互に縁ありて聞れば定めがたけれど・・・猶後人の考を俟つ」と載せたり。 當社は古来悪疫除避の神として尊崇せられ、享保10年6月丸亀藩主京極高矩祈祷料として社地廻りにて林一段五畝を寄進せられ、享和2年10月藩主京極高中封内巡視の砌親しく参拝して悪疫防止の祈願を為せり。 又文久4年5月藩主京極郎徹る参拝あり。 香川県神社誌 |