金刀比羅宮
ことひらぐう 所在地 社名















   【延喜式神名帳】雲気神社 讃岐国 多度郡鎮座

   【現社名】金刀比羅宮
   【住所】香川県仲多度郡琴平町892-1
       北緯34度11分2秒  東経133度48分34秒
   【祭神】大物主神 (配祀)崇徳天皇
   【例祭】10月9-11日 例祭
   【社格】旧国幣中社
   【由緒】大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った
       長寛元年(1163年)に崇徳上皇が象頭山松尾寺金光院に参籠した
       明治4年(1871年)に国幣小社
       明治18年(1885年)に国幣中社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録は無い

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「金毘羅大権現」と称していた
   【公式HP】 金刀比羅宮
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】
   【境内図】 境内図

古伝によれば、大物主神は、瀬戸内海の海水が深く湾入し、潮が常に山麓を洗う、湾奥に横たわる良き碇泊所であったこの琴平山に行宮を営まれ、表日本経営の本拠地と定めて、中国、四国、九州の統治をされたといわれている。
その行宮跡に大神を奉斎したと伝えられている。
金刀比羅宮の由緒は三説ある。
@大物主命が象頭山に行宮を宮んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称した。
Aもともと象頭山にあった真言宗の松尾寺に金毘羅が鎮守神として祀られており、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする
B『生駒記讃陽綱目』の金刀比羅宮の條によれば、延喜式神名帳に名が見える讃岐国多度郡の雲気神社が金刀比羅宮の元宮とする。


由緒

御本宮由緒書
はじめ大物主大神を祀り、古くは琴平神社と称する。中古仏教の興隆に伴い、本地垂迹説の影響を受けて金毘羅大権現と改称し、永万元年(1165)に至って、御相殿に崇徳天皇を合せ祀る。明治初年(1868)になって神仏混淆を廃し、元の神社に復り、明治元年7月、特に宮号仰出され、金刀比羅宮と改称され現今に至る。
御祭神は、大物主大神と申し、建速須佐男尊の御子、大国主神の和魂神に坐す。当宮は、大神が国土経営の砌、暫し行宮を営まれた御旧蹟と申し伝えられており、神代の昔より御鎮座せられている御縁深い旧社である。
又、御相殿に鎮まります崇徳天皇は、第七四代鳥羽天皇の第一皇子で御名は顕仁。元永元年(1119)誕生、保安4年(1123)五歳で即位し、第75代の皇位を継承、永治元年(1141)に近衛天皇に譲位、後保元の乱にあい讃岐国綾郡松山(香川県坂出市)に配流せられ、世に讃岐院と称し奉られる。
籠居九ケ年の間、金刀比羅宮境内古籠所に御参籠せられ、又親しく御宸筆を納められた由縁が有る。
長寛2年(1164)8月26日崩御、御寿46歳。讃岐白峰陵(香川県坂出市)に葬り奉る。翌永万元年7月、御在世中の御縁故に依り、ひそかに御霊を迎えて御相殿に斎き祀る。
桃園天皇御宇宝暦3年12月、勅願所仰出され、同10年5月、日本一社勅願所たるべき旨、綸旨を賜り、爾来明治初年に至るまで、毎年春秋の二季に、禁中より御撫物を当宮別当に下して、宝祚悠久を祈らせる。そのほか、桃園天皇、後桜町天皇、後桃園天皇を始め暦朝皇室のすこぶる篤く、御代拝を差し遣わされたり、或いは金品の御寄付あらせられる事があり、光格上皇には天保10年、臨時御祈祷仰出され、孝明天皇には安政5年、文久3年の両度臨時御祈祷仰出される。また明治天皇には、明治16年、御思召を以って御短刀一口御寄付仰出され、同21年には当宮保存会設立の趣を聞食されて金員を御下賜遊ばされる。近くは大正天皇、今上天皇の御参拝あらせられる等皇室の崇敬篤く、武門武将より一般市民に至るまで、広く信仰せられている。
全国津々浦々からの参拝客は、毎年300万から400万。それぞれ深い御蔭を戴かれて居る。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




金刀比羅宮

御祭神
大物主神
崇徳天皇(第75代)
由緒
「さぬきのこんぴらさん」の名で親しまれている金刀比羅宮は、ご祭神に大物主神と崇徳天皇を合わせお祀りし、瀬戸内海を望む瀬戸内海国立公園、名勝、天然記念物の指定を受けた景勝の地である象頭山(琴平山ともいわれます)の中腹に鎮まっています。
創建された年代は明らかではありませんが、古来からの伝承によれば、早い時期から大物主神をお祀りして琴平神社と称し、すでに平安時代には幅広い信仰を集めていました。そして平安時代の末期永万元年(1165)7月には、保元の乱に遭って讃岐国に配流されたまま崩御された(亡くなられた)崇徳天皇の御霊を合わせお祀りいたしました。
奈良時代に始まった神仏習合による本地垂迩説(世の人を救うために仏が神に姿を替えてこの世に出現したとする説)の影響を受けて、室町時代頃には金毘羅大権現と改称されており、金光院松尾寺の住職を金毘羅別当とする大神域に及ぶ組織が形成されていました。
江戸時代中頃の桃園天皇の御世、宝暦3年(1753)12月に皇室の勅願所となり、同10年(1760)5月には日本一社の論旨(天皇の命令文書)を賜り、明治初年に至るまで毎年春秋に皇室の安泰祈願が行われてきました。
明治元年(1868)3月の神仏分離によって元の琴平神社に改められ、同年7月金刀比羅宮と改称して現在に至っています。
ご祭神の大物主神は、大国主神の和魂神であり、古来「海の神様」として漁業・航海など海上の安全を守ってくれる神としての信仰のみならず、農業殖産の神、医薬の神、技芸の神としても全国各地の人々から篤い崇敬が寄せられ、特に江戸時代中頃から、海の神様として信仰した船乗りの人々がその神徳を各地に伝えるとともに、十返舎一九や滝沢馬琴の読み物などの影響によって「こんぴら参り」がブームとなるなど、民衆の神様・庶民の神様として、身近な気安さを感じさせる神様です。
このような信仰のあらわれは、こんぴらにまつわるさまざまな説話や、奉納された数多くの絵馬や宝物類を通じてうかがうことができます。金刀比羅は、皇室を始め平安貴族、戦国の英雄、江戸時代の大名それにも増した庶民の絶対的な信仰を集めて、古今の多くの物語を包んで象頭の山に永遠に鎮まっています。
「しあわせさん。ごんぴらさん。」どうぞ参道の長い石段を登りつめ、大神の大前に額ずいて、皆様方の幸せをお祈り下さい。
主な祭典
●例祭10月9、10、11日
10日夜には、「おさがり」といい、御本宮から約2Km離れた所にある御旅所へ、11日には「おあがり」といい、御旅所から御本宮まで御神輿の渡御があります。この時、汚れなき童男、童女各2名からなる頭人を中心とした頭人行列、先供の奴、供奉の所役、神職、巫女、伶人等総勢約500名が行列を整え、御神幸が行われます。金刀比羅宮の例祭では頭人が中心的役割をはたすことから例祭のことを「お頭人さん」とも呼んでいます。

由緒書



金刀比羅宮

こんぴらさん≠フ名で親しまれている金刀比羅宮(ことひらぐう) は、琴平山(象頭山)の中腹に鎮まります。
小西可春編「玉藻集(たまもしゅう)」延宝5年(1677)や、菊池武賢編「讃州府志(さんしゅうふし)」延享2年(1745)などには、それぞれ「この山の鎮座已(すで)に三千年に向(ちか)づく」とあります。
初め、大物主神を祀(まつ)り、往古は琴平神社≠ニ称しました。
中古、本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)の影響を受け、金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)≠ニ改称し、永万元年(1165)に相殿に崇徳天皇を合祀しました。
その後、明治元年(1868)に神仏混淆(しんぶつこんこう)が廃止されて元の神社に復(かえ)り、同年7月に宮号を仰せられて金刀比羅宮≠ニ改称し、現在に至っています。
金刀比羅宮には主たる祭神の大物主神(おおものぬしのかみ)とともに、相殿(あいどの)に崇徳(すとく)天皇が祀られています。
全国にある「こんぴらさん」の総本宮
大物主神は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟、建速素盞嗚命(たけはやすさのおのみこと)の子、大国主神の和魂神(にぎみたまのかみ)で農業殖産、漁業航海、医薬、技芸など広汎な神徳を持つ神様として、全国の人々の厚い信仰を集めています。

公式HP



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