雲気神社
くもげじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】雲気神社 讃岐国 多度郡鎮座

   【現社名】雲気神社
   【住所】香川県善通寺市弘田町1105
       北緯34度14分8秒、東経133度45分14秒
   【祭神】豊受大神 大龍神 大雷神
       闇おかみ神 高おかみ神『全讃史』
       天御中主神『西讃府志』『讃州府志』『讃岐名所図絵』

   【例祭】9月第1日曜日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】貞観元年(859)正月7日官社に列
       貞観元年(859)3月22日従五位下
       天正年間(1573−92)天霧落城の時兵で焼失
       宝暦4年(1754)京極高矩再興
       天明年間(1781−89)造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造
       拝殿

   【境内社】

天正6年(1578)長宗我部軍の天霧城侵攻のおり 兵火にかかり社殿が消失したと伝えられており、宝暦4年(1758)に丸亀藩主京極高矩公により雲気神の所在について調査が行われ 当地に社殿が再興された。


雲気神社

式内郷社 雲気神社 縁起
当社は 弘田郷の産土神社であり その社格は郷社である また延喜式神名帳によれば 讃岐国官社二十四社の一とされている
当社の祭神は 香川県神社誌によれば、豊宇気大神 大龍神 大雷神の三座とされており また延喜式神名帳の式社考には 天御中主尊とある
なお いずれの祭神におかれましても その鎮座の年月は不詳である 当社の神位は 三代実録によれば 貞観元年(859)正月七日に清和天皇より讃岐国従五位下を賜り 翌年五月二十日には讃岐国従五位上に昇階を賜ったと記されている このことから当社は小社ではあるが古代においては朝廷の崇敬厚い有力な神社であったことが」伺われる
社号の由来は 天霧山よりい出し雲により良く雨が降るとのことから雲気神社と呼ばれたと全讃誌に記されているが 真偽の程は定かではない
当社の所在については 総本山善通寺伽藍に雲気明神を含む五明神が祀られており 東寺の文書抄にもこれに係る天喜四年(1056)の記録がある また生駒記讃陽網目の金刀比羅宮の条には 金刀比羅宮が即ち雲気神社であると記されている このように当社の所在は諸説があるが天正6年(1578)長宗我部軍の天霧城侵攻のおり 兵火にかかり社殿が消失したと伝えられており、そのため定かではなく 宝暦4年(1758)に丸亀藩主京極高矩公により雲気神の所在について調査が行われ 当地に社殿が再興されたものである
なお 先公の造営された社殿は 本殿(五尺一寸 一間二尺) 流れ造檜皮葺 幣殿(一間四方)一方切妻造瓦葺 拝殿(一間半 三間)入母屋造瓦葺の三殿であり神門を備えていたとの記録がある
祭祀については 京極家において春秋二回執り行われ 藩主自らが公式参拝をされていたと伝えられているが 明治維新後は神社制度も改革され 廃藩の際に弘田村に委ねられ 以来冨頭部落において祭祀を行っている次第である
なお 当社は 往年崇敬者は多く 武運の長久 産業の達成祈願のため遠近の参拝者が後を絶えなかったと伝えられている

社頭石碑



雲気神社

弘田川の流れに沿って北へ進むと、高速道路の南側に雲気神社があります。
 延喜式内社(えんぎしきないしゃ)で讃岐24社に数えられる由緒ある神社で、全讃史には「祠は昼なお暗く、よく雲気を生じ雨降る、故に雲気の神という」とあります。天正年間(1573〜92年)に長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の讃岐侵攻による兵火で全焼しましたが、宝暦4年(1754年)には丸亀藩主京極高矩が再興し、自筆の額、鳥居、神図を寄進しました。この再興にまつわる次のような伝説があります。
 京極高矩(きょうごくたかのり)が将軍の前で騎射(きしゃ)(馬上から弓を射ること)の腕を披露することになりました。心配しつつ眠りについたところ、夢枕に白ヒゲの老人が現れて「明日の騎射は重藤の弓に白羽の矢を用いよ」「わしのいう通りやれば必ず成功するぞ、わしはお前の領地の守護神・雲気の神じゃ」といいました。はたして翌日の騎射は大成功。調べてみると、雲気の古い祠跡が弘田村にあったということです。

善通寺市HP




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