社伝によれば、継体天皇2年(508)の鎮座と云う。また、伊予国神野郡(新居郡)の人久留島某(和気氏の一族という)が当地に移住して、其の祖神伊曾乃神社を迎えて創祀し神野神社と奉称したともいう。 第33代推古天皇5年に宇佐八幡宮から八幡神(品田和気命・息気長足姫命・中日売命)を相殿に勧請した。このため、長らく八幡宮、正八幡宮と称されることになった。 天正7年(1579年)、兵火により焼失。このとき御神体は自ら去って、当社の東方6丁あまりに鎮座したという。天正17年(1589年)、旧跡である現在地に神殿を再営した。 |
由緒 継体天皇2年の鎮座という。 伊予国神野郡の人久留島(和気氏の一族)当地に移住し、その祖神伊曽乃神社を創祀し神野神社と奉称。延喜式内二十四社の一。高松藩祖松平頼重の崇敬厚く正保元年社地を検して境内方五十間、馬場三丁三十間を寄進された。最近では明治23年、大正12年社殿を改修、昭和5年幣殿拝殿を改築した。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
神野神社 神野神社は、祭神天穂日命延喜式内二十四社の一で、社伝によると第27代継体天皇2年この地に鎮座し、その後■の大領多郡君に我は土師の祖神でこの地に鎮り居ること多年神殿破壊に及べり汝よく修営すべし、国家永久五穀豊穣となり との神託あり、祠宇を再造して神野神社と称す。 果たして、霊験その言の如くであったので多郡君は、これを国司に請いて朝廷に奏し奉り例幣の社となる。 弘仁年中菅公当国の国司であったときその祖神であるので崇敬殊に厚く神像を作り納め奉る御長さ二尺余の木造。 八幡宮は第24代推古天皇の5年郡家の戸主酒都益里宇佐八幡宮を勧請して相殿に斉る。祭神応神天皇、神功皇后、仲姫皇后を祀り方八丁の社地を開き、宮殿を再造し、三神の神像を造り納め奉る。 神体木造にして応神天皇御長さ三尺余白綾の御衣を着し、御衣は33年毎に衣替えの儀を行う。 神功皇后、仲姫皇后御長さ一尺余これより神野神社正八幡宮と称す。 第97代光明天皇貞和3年細川刑部大輔頼春中村城主谷川備後守と戦い当社に祈りて奇瑞あり因って殿宇を再興し神田を寄進して格別の崇敬篤かった。 第106代後奈良天皇天文2年木徳郷里長福崎左衛門当社を木徳郷の氏神とせんとして當郷の高畠勝家と争ひ起こり、桓武祀多田義継上洛して將軍足利義晴に訴へ当郷に属する裁許あり。 天正年中土佐の長曽我部氏当国に乱入の時兵火にかかり宝器神殿悉く焼失する、時に神体自ら去って田間の小林中にあり因って社を建てその地に祭る。この地は神社の東方六丁余でそれから今八幡と云う。 天正17年旧跡に神殿を再営し同年8月14日遷座し奉る。 社頭掲示板 |
神野神社正八幡宮 神野神社正八幡宮の祭神は、天穂日命(天照大神の第十二子)で讃岐国延喜式内二十四社之一で、第27代継体天皇(今より1800年位前)この地に鎮座しました。 その後、「綾の大領多郡君に社殿を修営すべし」とお告げがあり社殿を再榮して神野神社と云います。 霊験のごとくであったので、大郡君は、これを国司にねがうて朝廷に奏し奉り例幣(特別な)神社となりました。 菅原道真が讃岐国の国司であったとき、自分の祖先であるので崇敬、殊に厚く神像を作り納め奉りました。長さ三尺余りの木像、現在の神像はこれであります。 八幡宮は、第34代推古天皇の時代に郡家の戸主酒部善里が宇佐八幡宮を勧請して共に祭りました。 祭神は、応神天応、神功皇后(応神天皇の母)仲姫皇后(応神天皇の皇后)を祀り方八丁の社地を開き、宮殿を再造して三神の神像を造り納めました。 神像は木像で応神天皇は御長さ三尺あまり、白綾の御衣を着ています。御衣は33年ごとに衣替の神事を行います。神功皇后、仲姫皇后は御長さ二尺余りで、木像であります。 これより神野神社正八幡宮と呼ぶようになりました。 由緒書き |