往昔満濃池が未だ築成される以前、景行天皇の御宇神櫛王がこの地の天真名井に狩をし、この地に天穗日命を祭り、神野神社と称し岡象女神を奉祀した。大宝年間池を築くのに際し堤上に遷して池の守神とし、池の宮と奉称した。 |
神野神社 神野神社と鳥居 神野神社は、満濃池の守護神として奉斎され延喜式内讃岐二十四社の一つにかぞえられた古社である。 祭神は、天穂日命 水波能売命等四柱がある。正治元年(1199)2月12日矢原庄司義宗によって再建以来、寛永5年(1628)萬治2年(1659)宝暦4年(1754)文化元年(1804)文政3年(1820)明治3年(1870)}等の池普請の度毎に社殿の造営が行われ、昭和28年(1553)の満濃池拡大工事によって現在地に遷座したものである。 社前の石造鳥居は、文明2年(1470)の建造で、本町内最古の鳥居である。 社頭掲示板 |
満濃池略史 「晴天5日を経れば水湿の潤い無く 霖雨二日に及べば洪水の難有り」と記されているように水利に乏しいところであった。農民は灌漑用溜池を渇望・歎願しつづけそれが実現されたのが満濃池である。阿讃の四季を写す水鏡は風光明媚、貯水量、伝説など名実ともに日本一と称されている。 この池の創築は大宝年中(701〜04)に国主、道守朝臣が築いたとされている。 その池名の由来は大同4年(809)頃まで当地を神野郷と呼んでいたのを眞野郷と改めたので「眞野」あるいは「十千」の池と呼ばれたと言われている。 満濃池は嵩上げ(堤上げ)樋替え、復旧の歴史である。有名な工事は弘仁9年(818)の洪水、翌年の大旱魃により農民の困窮は極限に達した。国主の奏上により弘仁11年(820)路真人浜継が下国し復旧に着手した。しかし九十九谷の雨水との戦いは工事の成功が危ぶまれた。そこで浜継は、国主、清原夏野と計り、池は大きく民は少なく修築の困難を再奏上し空海の差遣を懇請した。 嵯峨天皇の弘仁12年(821)5月27日勅許により名僧弘法大師(空海48歳)が築池別当として、沙弥、童子を従えて、豪族矢原正久邸に止錫した。(この時唐から持ち帰った花梨を植樹したと伝えられている。)空海は池畔の護摩壇上で秘法を修し加護を祈りつつ弓状堤防などの指示と説法をされた。人々の空海の特を慕い嬉々として集まり僅か三ヶ月でみごと難工事を仕上げた。 30余年を経て、仁寿元年(851)の秋、堤防が決壊し、国主、弘宗王により数千の夫役を発し、堤高を8丈(23.0m)とした。その後何回かの修復をしながら元暦元年(1184)の修築を期に戦国時代となり以後450余年修復する人もなく、池の中に池内村ができていた。 寛永2年(1625)に藩主生駒正俊が家臣西島八兵衛之尤に復旧を命じ、豪族矢原正直と計り昔日の面影を見るようになった。 満濃池の名は江戸中期より遣われるようになる。 以来、樋替工事24回(御用普請8、国普請8、自普請4)安政元年(1854)の大地震に堤防が決壊し、明治2年(1869)高松藩執政松崎渋右衛門の発議により揺替えごとの労役軽減や底樋の恒久化のため、豪農長谷川佐太郎などの協力により寒川郡田村軒原正蔵に命じ石穴三十間五尺三寸(56.2m)を穿鑿した。(国の登録有形文化財)翌年6月堤長四十五間半(88.7m)堤高十三間(23.6m)の完成を見た。竪樋、櫓は大正3年(1914)に排水塔に改築された。 その後の嵩上げは明治38年に0.87m、昭和2年に1.5m、第三次は県営満濃用水改良事業として昭和15年より開始したが戦争のため休止の憂目を見た。水没する五毛地区33戸の立退きなどの協力により昭和34年(1959)3月に6.0m、大望の竣工となり現況は次のとおりとなった。 堤高 32.34m 貯水量 1,540u 有効水深 21.14m 灌漑面積 約4,600ヘクタール 満水面周囲 約20Km 総工費 543,327千円 水面積 138.5ヘクタール 社頭掲示板 |