社伝によると、景行天皇に命じられた神櫛皇子が、悪魚を討つ為に、土佐国から讃岐国へ来る途中、雲と雨で闇のようになり、何も見えない状態となってしまう。 皇子は興北村火乞山に登り火を神に祈り求めるため、軻遇突智神を祀る。 これにより櫛梨山麓に船を泊める事ができ、この火乞山に祓戸神を祭る。これを般磐大明神という この地で皇子が、悪魚討伐戦勝を神に祈願していると、1人の翁が来て、大麻神と大歳神を祭るよう教える。 更に、諏訪明神、山下明神も祭る。 そして士気を発するために軍神武甕槌神・経津主神を祭る。赤坂大明神とはこれである。 この老翁は大麻神という。 悪魚を討った後、城山に城を築き、当国の国造に任ぜられる。 仲哀天皇八年9月15日120歳で亡くなり、遺命により櫛梨山に葬り廟を建て奉斎し皇宮大明神と呼ばれる。 もとは標高158メートルの如意山の山頂に鎮座していた。 |
由緒 当社は延喜神名式讃岐國那珂郡小櫛梨神社とありて延喜式内当国二十四社の一なり。景行天皇の23年、神櫛皇子、勅を受けて大魚を討たむとして讃岐国に来り、御船ほを櫛梨山に泊し給い、祓戸神を祀り、船磐大明神という、船磐の地名は今も尚残り、舟形の大岩あり、付近の稍西、此ノ山麓に船の苫を干したる苫干場、櫂屋敷、船頭屋敷の地名も今に残れり、悪魚征討後、城山に城を築きて留り給い、当国の国造に任ぜられる。仲哀天皇の8年9月15日、御年120歳にて薨じ給う。国人、その遺命を奉じ、櫛梨山に葬り、廟を建てて奉斎し、皇宮大明神という。社殿は壮麗、境内は三十六町の社領、御旅所は仲南町塩入八町谷七曲に在り、その間、鳥居百七基ありきと。天正7年、長曽我部元親の兵火に罹り、一切焼失する。元和元年、生駒氏社殿造営、寛文5年、氏子等により再建せらる。明治3年、随神門、同43年、本殿、翌44年幣殿を各改築、大正6年、社務所を新築す。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
櫛梨神社 延喜式内社さぬき二十四社の一社。 上代は景行天皇33年神櫛王この付近を治め甚だいわれ深い社である。讃岐の地史にも注目すべき歴史を有し。讃留室公は神櫛王の皇子である。南方如意山には苫干場、松屋敷、かし屋敷の地名も残る。天正7年(1579)当社も長曽我部元親の兵火にかかる。元和3年(1618)国主の造営、寛文の再、明治、大正等造改築、祭神70余神を合わせ祀る。一帯に古墳多く考古資料出土の地である。 琴平町教育委員会建 社頭掲示板 |