酒部益甲黒丸は、城山長者とよばれていたが、自分の家に井戸がないのを悩んでいた。その家の東北隈に栗の木があり、そこへ鵜が集まり、その足元に清泉が湧いたと伝。 |
宇閉神社 祭神は鵜羽葺不合尊、由緒は日本武尊の子武■王の六代目にあたる酒部益甲黒丸の創祀と伝えられ延喜神名式に列している。神域に泉がなく栗の大樹があった。 ある朝鵜のむれが栗の木の下をほると清水がわき出た、夜には星影が水に映って王の井と言われた。鵜足郡・粟隈・隈玉の名もありその後幾星霜領主の神として祭られた 平成2年綾歌町が西谷・定連線改良のため神社用地1,590平方米を町に売却した神社の拝殿幣殿の老巧化・参道の整備・御旅所の拡張等により神社建築及び神苑の整備をすることとなり、境内売却代金の収入と氏子各位の御賛同を頂き、その工事費は約4000万円で関係者各位の熱意により完成した。 平成5年10月吉日 社頭掲示板 |
宇閇神社古墳 綾歌町には縄文時代晩期 (約3000年前)からの集落跡が多く見られ、早くから人々が生活していたことが分かります。弥生時代の終わり頃(約1800年前)からは、有力者が比較的大型の墓(墳丘墓 ・古墳など)を造るようになり、綾歌町内にも多くの古墳が残されています。 宇閑神社古墳は古墳時代後期 (約1500〜1400年前頃)に築造された古墳で、権力者の家族墓として使用されていたものと考えられています。 古墳は、土を盛って築かれた直径16〜17m、高さ4mの円墳です。 中心部に横穴式石室があり、羨道 (外部から石室に通じる通路)を東側に備えています。石室1〜2m大の石を用いて築かれており、玄室 (遺体を収める部屋)の大きさは、奥行き4.9m、床幅1.85m、天井幅0.95m、高さ2.0mで綾歌町内の古墳としては最大規模です。石室内部は盗掘を受けているため、棺・副葬品共に確認されておらず詳しいことは不明です。 この古墳は、南の猫山から北に延びる丘陵の先端近くにあります。古墳の東や北には小さい平野が開けていることから、その地域を治めていた有力者が葬られたのではないかと考えられています。 丸亀市教育委員会 社頭掲示板 |
宇閇神社 酒部益甲黒丸の創祀と傳へられ、延喜神名式に「讃岐国鵜足郡宇閇神社」とあるのは、當社なりとも云へり。三代物語、全讃史、生駒記等は此の説なり。傳ふる所によれば、酒部益甲黒丸は武卵王の裔にして當地に住し酒を醸す。城山長者と称せられ其の家甚だ富む。常に家に井泉なきを憂へしが、邸内に栗の樹あり、鵜樹上に集へるが、或る朝鵜群足を以て地をえがきしに其の處より清水湧出して流を為せり。夜は星影この水に映じて玉の如くなりしより玉の井と称す。郡名鵜足はこれによって起る。又郷の名を栗隈又は玉隈と云う。この水の至る所五穀豊熟せり。依って其の地を富隈と云う。黒丸この水を以て酒を醸ししにその色黒く澄みて味甚だ甘味なり。以て允恭天皇に奉る。天皇之を嘉し給ひて姓酒部を賜ふ。其の酒を称して黒丸酒と云へり。黒丸一祠を井のほとりに建つ、即ち當社なり云へり。後鵜井権現、鵜野邊の神等称せられ、更に降りては十二社権現とも称へられたり。黒丸の舊蹟を城山と云う。今木山と誤れり。又玉井大明神と云う祠あり。栗樹の跡を栗野と云ひ、當社地を鵜之井免と云う。明治初年宇閇神社と改称し村社に列せられ、大正7年8月神選幣帛料供進神社に指定せらる。 香川県神社誌 |