神谷神社
かんだにじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】神谷神社 讃岐国 阿野郡鎮座

   【現社名】神谷神社
   【住所】香川県坂出市神谷町621
       北緯34度19分30秒、東経133度55分0秒
   【祭神】火結命 奧津彦命 奧津姫命 (配祀)経津主神 武甕槌神 天児屋命 姫大神
       天神立命『讃岐国官社考証』

   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】弘仁3年(812年)春日の四社を勧請
       貞観7年(865)10月9日従五位上
       貞観17年(875)5月27日正五位下
       建保7年(1219)本殿造立
       天文9年(1540)9月13日造営
       永禄11年(1568)8月造営
       万治3年(1660)9月造営
       明治5年郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「五社大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造檜皮葺
       拝殿・神饌殿・祓殿・祝詞門・宝藏

   【境内社】

この地は古より農地がよく開け、典型的な農村地帯で、條里制の遺構がよく残つている。
本殿は流造で、造営年次が明確に記録されているものとしては、全国で最も古い。昭和30年2月、鎌倉初期の代表的建築物として国宝に指定された。
当社の裏には「影向石(えいこうせき)」と呼ばれる磐座が存在している。


由緒

当社は坂出市神谷町621に鎮座しており、火結命,奥津彦命,奥津姫命をお祭りし併せて春日四柱大神を合祀している。
弘仁3年5月庚申に、弘法大師の叔父の阿刀大足は、阿野郡鴨部郷のはん米地二千石を領した時、春日四柱を相殿に勧請して再興したと云われる。延喜武神名帳に讃岐国阿野郡神谷神社と記してある。
三代実録には、貞観7年10月従五位上、同17年戌申に正五位下を授けられたと記載してあるが建保7年2月の本殿棟木墨書銘に正一位とあり、これより先正一位の神階が授けられたと考えられる。肇祀は古代であって不明。旧郷社。三問社流造りの本殿は明治37年8月、古社寺保存法により国宝に指定されたが建築年代が明らかで且つ当初の古材を残す三間社流造りの日本最古の社殿として昭和30年2月には文化財保護法により改めて国宝に指定されている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




神谷神社

延喜式内 神谷神社 坂出市神谷鎮座
祭神
火結命
奥津彦命
奥津姫命
春日四柱神
由来 社伝史実其他
神谷の渓谷にあって深い淵から自然に湧き出るような一人の僧が現れ淵の傍らにあった大岩の上に祭壇を設け天津神を祀り国家安泰五穀豊穣を祈ったのが神谷神社の創始と謂われている其の後嵯峨天皇弘仁3年阿刀大足が大に社殿を造営再興し春日四柱の神を相殿に勧請し、益々霊験厚く阿野郡北一円の守護神として人々の崇敬が深く、又境内を流れる川の奥に深夜神々が奏する神楽の鈴の音がすると言うのでこの里を神谷と呼ばれたとも謂う。
貞観7年冬10月9日三代実 讃岐国従五位下神谷神授従五位上
貞観17年 申授  三代実録 讃岐国従五位上神谷天神正五位下
延喜5年11月26日宣下、延喜式神名帳に讃岐国阿野郡北 神谷神社と載せられ健保7年道営の本殿棟木には
正一位神谷大明神の墨書銘がある
文化財 国宝重要文化財
国宝本殿 一棟 三間社流れ造り
明治37年特別保護建造物指定
昭和30年2月6日 国宝指定
流れ造り社殿の中で建築年代の明らかなのでは、我国最古の遺構である本殿棟木に「正一位神谷大明神御宝殿、建保7年歳次巳卯2月10日丁未日始之、惣官散位形部宿弥正長」とある
重要文化財 随身立像 作者不詳
昭和41年6月11日指定阿吽像二躯
欅材胴躯部一木造りで巾子冠をいただき闕腋を着用し持物を執る姿をして鎌倉の時代に作られたと思われる優秀な神像である

社頭掲示板



神谷神社

国宝神谷神社本殿
当社は延喜式内讃岐二十四社の一て、貞観7年10月従五位上を.同17年正五位下を授げられた古礼である.本殿はその化粧棟木に「正一位神谷大明神御璽殿一字建保7年2月10日丁巳月始之惣官散位刑部宿弥正長」の墨銘があって録倉時代初期の建築が明らかな三問社流靴造りで、この建築様式ば平安時代初期に完成したと考えられているが、当初のまま残存するこの種の社殿としては最古のものである。舟肘木あろいは和様三ツ斗の組物、槍鉋仕上げの丸柱、大きく面を取つた角柱などによく時代を表わして居り、正面七段の階段と昇勾欄、縁側の■勾欄、板唐戸などによくこの建築に調和して荘厳且つ優雅である.建築史上貴重なもので昭和29年12月22日、国宝に指定されている。
重要文化財、木造随身立像
像高125cm余の阿・吽一対の立像で、ともに巾子冠をいただき、狩衣を着け、両臂を外方に張つて持物を執つた姿をしている。両像とも鼾゙で頭部は袍襟内の棚状平面に丸納立で頭部を栽せ、一材でつくった袖を肩で矧ぎ着けているが、内刳りは無く一種の一木造である。冠と髪を墨て塗るほかは、素地であるが所々に下地がみとめられるので、もとは彩色があつたと考えられる。面相は写実的で深い衣褶と翻る衣紋の様など鮮かで力強く、国宝本殿の造営された健保7年(1219)をあまり降らない頃のものと考えられ、わが国神像彫刻中で異色のものである。

社頭掲示板



神谷神社

当社は延喜式内讃岐二十四社の一で、貞観7年10月従五位上を、同17年正五位下を授けられた古社である。
本殿はその化粧棟木に「正一位神谷大明神御宝殿一宇、健保7年2月10日 月始之惣官散位刑部宿根正長」の墨銘があって鎌倉時代初期の建築が明らかな三間社流れ造りで

社頭掲示板



神谷神社

【由 緒】
 神谷神社の創祀は、太古、神々がこの溪谷に集い遊んだところから、この地を神谷といい、また自然居士なる人がこの川渕に忽然と現われ、傍の大岩を祭壇として天津神を祀ったと伝えられているが、この附近からは弥生時代の石鏃・石斧・土器などが出土し、神社の裏には影向石と呼ばれる磐座もあり、その祭祀が古代に始ることを物語っている。
 弘仁3年(812)嵯峨天皇の御代、阿刀大足(弘法大師の大叔父)が社殿を造営祭祀し、併せて春日四柱を相殿に勧請し奉ったといわれ、貞観7年従五位上、貞観17年正五位下(3代実録記載)の叙位があり、延喜5年には国司班幣の神として延喜式神名帳に記載(延喜式内社)。その後も度々叙位あってか建保7年(1219)建立の現本殿棟木には「正一位神谷大明神」の墨書銘がある。
 このように、古来より郷人は三ヶ庄(松山・林田)の総氏神として崇め、五社大明神、清瀧社とも呼んで、その祭事には舞楽上納、大般若経の転読などが行われ、また武門の崇敬も厚く、荘官刑部正長は建保7年2月本殿を再建(現本殿)、貞治年間細川清氏は神号扁額を奉納。讃岐の守護細川氏も社殿を修理増築し、祭田を寄進。その臣、安富・香西氏は神前に連歌を興行して奉納するなど、宝物として現存のものも多く、その崇敬のほどを偲ばせている。
【宝 物】
本殿=国宝、鎌倉初期/木像随身立像=重要文化財、鎌倉初期/神谷社法楽連歌1巻=坂出市文化財指定、明応5年/舞楽面2面=市文化財指定、抜頭面は鎌倉、還城楽面は室町時代/大般若経600巻=市文化財指定、鎌倉末期/神号扁額1面=鎌倉末期/木造狛犬1対=鎌倉時代

全国春日連合会



神谷神社

神谷神社(かみだにじんじや)
香川県坂出市神谷町。
旧郷社。火結命・奥津彦命・奥津姫命を本座とし相殿に経津主命・武甕槌命・天児屋根命・比売大神を祀る。古伝説によれぱ現社殿のちかくに淵あり、淵の傍の大岩上に奉斎したのに始まり、弘仁3年(812)弘法大師の叔父阿刀大足が社殿を再興。貞観7年(865)従五位上を、同17年神谷天神に正五位を授け、延喜の制小社に列する。五社大明神とも呼ぶ。棟札は弘仁3年(812)勧請云々・長寛元年(1163)など多数存する。本殿は化粧棟木に建保7年(1219)とあり現国宝。木像随神立像二躯は鎌倉初期の作で重要文化財。昭和44年ソヴィエト連邦で、同51年アメリカで出展、神道美術の粋として紹介された。例祭10月10日。

神社辞典



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