神社の東方を流れる和邇川の川上、塞川郡長尾郷名村に、石神と云う地があり、大石があり、石神権現と云う社もある。風土記の古伝を考えると、上古肥前国佐嘉川のように、川を海神が逆登ってこの石神の所へ往來したという故縁があって、この井戸郷に、その神霊を齋祀したと思える。 数多き遷宮により、式内社の比定が難しくなり、多くの論社を生んだとの説がある。 古くは井戸之郷氏八幡和尓河神社、井戸八幡、井戸之宮などと呼ばれた。明治5年(1872年)に郷社に列した。 |
和尓賀波神社 延喜式名式に「讃岐國三木郡一座和爾賀波神社」とありて延喜式内讃岐國二十四社の一といふ。社記に「此郷有 川曰 鰐川其源従寒川郡南山出流至 鴨部郷 遂東北入 於海 昔者海神 之女豊玉姫神駕鰐魚 潮流覓居地時来座此處 而曰是土者甚宣居處也即鎮座因曰 居處郷今訛謂 井戸郷叉此社上有石神名曰世田姫海神也」とありて古く神代の鎮座なりと云ふ。 官社考証に右社記を引きたる後「肥前國風土記に郡西有川曰佐嘉川云々 此川上石神 名曰世田姫海神 (謂鰐魚)年常逆 流潜上至 此神所 海底小魚多相従之云々・・・・とあるを考合てよ・・・此神社の東方を渡るゝ所謂和爾川の川上寒川郡長尾郷名村に石神と云地ありて、いみじき大石あり、叉石神権現と云社もあれば、彼風土記の古傳とを熟考るに此所にも上古肥前國佐嘉川の如く此川を海神(わに)の逆りて彼石神の所へ往来せし事の時々有しを古縁ありて此井戸郷に其霊を齋祀しにやあらむ」といへり。 一説に神代の昔玉依姫鰐魚に乗りて屋島の西海より今の晋川を遡り此の處に鎮座し給へり。而して晋川は當時此の地を流れて屋島の西海に入れりと。 貞観年間山城国男山より八幡大神、気長足姫命を迎へて奉祀し、爾来和爾賀波八幡、叉井戸八幡と奉稱するに至れり。 その後天喜2年造営あり。足利時代に及び細川家の尊崇厚く、細川勝元の晋寺社奉行安富左京亮紀盛保、大炊御門藤原信宗筆の三十六歌仙扁額六枚を奉納せり。 天保6年高松藩執筧政典此の額に鑑識する所を記せるものと共に神庫に現存ず。 生駒氏の當国に封ぜられるゝや天正16年9月5日荒開五段を社領とする。 傳ふる所によれば當社に樟の大樹多かりしが、生駒氏之を伐採して造船の材となし、その代償として松樹千本を京都嵯峨より取寄せ箱植とす。 現存の老松は即ちこれなりと。 前記社領寄進は樟樹伐採の故以てなりといへり。 生駒家士分限帳に「六石 井戸八幡宮」と見ゆ。 生駒高俊西島八兵衛之尤をして當社に賽せしめしと傳へ、松平氏國守となりてよりもその尊信厚く社領故の如く寄進ありて藩主累代の寄進状現存せり。天保六年松平頼該社號扁額を奉納す。松平頼顕の筆にして現に本殿に掲ぐ。叉旱魃霖雨の節等祈願を命ぜられ、當社より守札を納めたり、社殿の改修亦屡々ありて、現存の本殿は寛文7年、拝殿は文化8年、随身門は安政3年の造営なり。 明治5年郷社に列せられ、同40年9月21日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。 大正15年5月本殿屋根葺替、昭和4年拝殿旅殿の屋根葺替あり、同10年社務所を新築す。 香川県神社誌 |