社伝によると、豊玉姫命が亀に乗って讃岐国山田郡潟元(屋島付近)に上陸し、鵜葺草葺不合尊をこの地で産む。その後鰐に乗って川を遡り、この地に上陸したという。行基がこの地に創建したという。 |
由緒 太古の昔、豊玉姫神、鰐魚に乗り、この地に来たり社を建立緒神緒仏遊戯の地となりぬ延喜式内、和称賀波神社はこの産社なり。僧行基の建。郷社、高岡八幡宮とも奉称す。 後鎌倉時代に元軍退治の祈祷所となり、明治5年鰐河神社と改称し郷社に列す。旧応神寺別当。さぬき15社四番。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
鰐河神社 紀元前 浦島太郎が竜宮を去った後 乙姫は太郎を慕って蒲生の里に辿り着いた 蒲生は今の屋島西町である。姫は太郎の子を身籠もっており、男の子を産んだ。この子は鵜茅草葺不合尊と呼ばれ神武天皇の父となった。 乙姫は豊玉姫と呼ばれ浦島太郎は彦火火出見尊と呼ばれた。 乙姫は鵜茅草葺不合尊を生むと鰐にのり新川をさかのぼり三木町の高岡郷に着きここで永住した。 鰐川神社は豊玉姫を祀る神社である。 平成元年1月吉日 社頭掲示板 |
鰐河神社 應神天皇 豊玉姫命 四條八幡宮、或は高岡八幡宮と奉称せられ、延喜式内和爾賀波神社は當社なりとも云へり。 三代物語に「四條八幡宮・・・和爾賀波神社・・・高岡一郷社祀之」とあり、全讃史には「和爾賀波神社、高岡一郷の産土」と見ゆ。 里人の傳ふる所、海童の女亀に乗りて山田郡潟元の浦に来り鵜茅草葺不合尊を生む。 因て其の地を浦生といふ。 遂に鰐魚に乗り流れを泝りて四條に位たる。 依て其の川を鰐河と云ひ、亦祠を立てて之を奉ぜし所を鰐河神社と稱すといふと。 又社僧應神寺記には、聖武天皇御宇僧行基此の里に来りしに、夜夢に神童鰐魚に乗り四條川を泝り来り告げて曰く、當地は諸神諸仏遊戯の地なり、師一宇を建て一神一佛を安置せよと。 行基前日の浦生の明神を拝し最畏く思ひゐしに今夢告あり、大いに畏みて應神寺及び鰐河神社を建立すとあり。 又極楽寺記には「延喜七年夏四月明印高岡八幡宮勧請、一群八幡始」とあり。 (全讃史之を引きて「今考之原玉豊姫爲主延喜時以八万神配之也」と云へり。) この時醍醐天皇より本地佛金像阿弥陀仏三躰神剣二柄奉納ありて社領数町を賜ふといふ。 右本地佛は明治維新神仏分離の節當村願勝寺に預けたりと。 永承四年勅して佛舎利を賜ひ、弘安四年元軍の来襲に當り、勅ありて異賊退治の祈祷を修す。 秋9月社領御搦窒り、亦剣一柄を下賜せられて今猶伝内に納むといふ。 又當社は男山八幡宮に倣ひ社前の川に於て放生会を執行し来たりしもいふ。 さて當社は戦国兵乱の後衰頽を極め、社領も喪失し同寺焼失と共に烏有に帰し、僅かに残存の物も天和三年祠官退職の節失ふに至れり。 享禄年間領主三木紀伊守高長社殿を改築せしが、元禄15年12月3日火災に罹り全焼す。 明治5年社號を鰐河神社と改稱、郷社に列せられ、同40年9月21日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。 香川県神社誌 |
鰐河神社の大獅子 三木町指定文化財 昭和60年3月23日指定 獅子頭は高さ63cm,幅90cm,長さ100cmあり,木で枠組みをつくり,それに竹の網代で原形が作られ,その上に和紙を張り合わせて,塗料を塗り固め,色彩がほどこされている。その頭に,長さ12m(尾は別),幅5.4mの油単がつけられる。油単の中には7個の竹の輪が取り付けられている。この輪は醤油樽のたがが用いられている。頭から尾までの全長は約13m,この獅子を動かすためには約50人(大人,子ども含む)が必要であり,鉦も半鐘を打ち鳴らしている。獅子舞の特別な技術はないが,この大獅子が道も狭しとばかりに練り歩き,時に大きな頭を振り上げ四方をにらむ姿は壮観であり,まさに王者としての貫禄をもつ勇士といえよう。この大獅子は,伝説によれば,約200年ぐらい前に奉納されたという。 三木町HP |
条里制と鰐河神社 このあたりの地名を四条といい、南東の方角には三条が、さらに東には二条という所がある。これらは条里制のなごりが地名として残ったものである。大化の改新(645年)の折に、土地制度として斑田制を実施した。この班田制を行うために班田図籍が必要で、そのために条里制を作った、それは、士地を区画するために六町(約654m)ごとに区切り、東から西に向かって一条、二条、北から南に向かって一里、二里と呼んだものである。694年に藤原京が、710年に平城京が作られた時代は律令制による国家制度が整えられた時期で、条里制もその一環として行われた。条里制と並んで行われたものに郡郷制があり、このあたりは三木郡の高岡郷とされた。そしてこの鰐河神社は高岡郷の中心として、豊冨な湧き水のそばに祭られたのが始まりであろうと考えられる。 社頭掲示板 |