神代に速秋津姫尊が多和郷の渚に来て、「此水門は、甚だ深くて、よき須美戸なり」と言って鎭座した。 もとは約1.5Kmほど東方にある古刹志度寺の境内に鎮座していた。寛文11年(1671)、時の高松藩主松平頼重によつて、当時連岳神社という小祠のあつたこの地へ遷座したという。 明治初年になつて、当社「八幡宮」が式内多和神社であるという主張が有力となつた。 |
多和神社 多和文庫 明治5年以来23年間、金比羅宮祢宜の職にあった多和神社宮司松岡調翁が終世をかけて集めた古文書、古写本、書画、文献、考古学上の発掘物など、5000点に及ぶ資料が収蔵されている。 なかには未完成となっている「新撰讃岐風土記」二十数冊のほか、江戸末期から死没までの毎日の出来事を克明に記録した「年々日記」など、当時の讃岐を知る貴重な資料も納められている。 この丈庫は別の名を「香木舎(かきのや)文庫」といい、多くの学者、研究者が訪ねていますが、一般公開はしておりません。 社頭掲示板 |
多和神社 鎮座地 香川県さぬき市志度126 正殿御祭神 速秋津姫命 相殿御祭神 大鞆和気命 帯仲津彦命 息長帯姫命 天照大日売命 大雀尊 倭武尊 本殿 流れ造 割り拝殿 御由緒 当社の創始は太古とありまして不詳ですが、社伝によりますと、「神代のむかし、速秋津姫命が多和の郷に来たりまして、この水門は潮いと深くして我が心澄みと宣い、とどまり給う。去るに及んで土人大久支、子久支、古老に真澄の鏡を授け給いて、これを我が御魂と取り託して多和の水門を祓戸と定め、国人ここに集いて祓いせば、犯せる罪もおのずから失わせむ。また朝タに沖行く五百船、千船を守らむと宣いき。ここにその御鏡を御霊代として多和大神と鎮めましき。」とあり、祓いの神として現在に至っています。 相殿については、寛平元年己酉(889)冬12月に、大祝正六位讃岐朝臣春雄が神明の託宣によって前記六柱の神を勧請して多和八幡宮と称え、産士神として尊崇してきました。延喜式内社であリ、元慶元年(877)には従五位のうえに叙せられました。当時の鎮座地は現在の志度寺の境内にありまして、社頭は志度寺伽藍とともに度々の荒廃があり、殊に戦国時代の文明11年(1479)の兵火かかってからは小社でありましたが慶長19年(1614)に当時の領主である生駒近矩により再興され、社領も寄進されました。 寛文11年(1671)6月に当時の讃岐国高松藩主松平頼重が志度寺再興に際しまして今の鎮座地に社殿を新営いたしましで遷宮されたのが現在の本殿であります。その後、明治にいたっては郷社讃岐三ノ宮として広くあがめられています。 社頭掲示板 |