諏訪神社
すわじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】石楯尾神社 相模国 高座郡鎮座

   【現社名】諏訪神社
   【住所】神奈川県大和市下鶴間2540
       北緯35度29分51秒,東経139度27分44秒
   【祭神】建御名方神
   【例祭】9月6日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】天安元年(857年)5月祭祀
       延宝8年(1680年)再建
       明治5年社殿造営
       昭和15年村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】旧地は東方約150mの宮田塚

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「諏訪神社」と称していた
   【公式HP】 諏訪神社
   【社殿】本殿
       幣殿・拝殿・神樂殿

   【境内社】稲荷神社・八坂神社・秋葉古峯合社

台地の上の社。広い境内。昭和15に現社名に。鎌倉中期に諏訪神社となる。
諏訪神社の東方約150mのところに宮田塚と呼ばれる小さな石の祠があった。これが元宮といわれるが、全農大和集配センター開発のおり、昭和47年、現在地(拝殿左)に移転、祭祀している。


由緒

鎮座地 相模国大和市下鶴間2540番地
当諏訪神社の創立は不詳であるが、千有余年前にすでに鎮座されたと伝承され、「新編相模風土記稿」によれば、たびたび再建された記録がみられる。そして社運は歴史とともに隆昌し、今日に至ったものである。
御祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ)
諏訪大明神として多くの人に尊崇されているが、御名は建御名方神と申し上げる。建御名方神は大国主神の第二子で、兄は事代主神である。
天照大神は「豊葦原の瑞穂国はわが子の治める国である」として、出雲国を治めている大国主神に国を譲るよう、たびたび使いを下したが、聞き入れられなかった。そこで最後に建御雷男之神を使いとしてたてた。この時、大国主神の御子事代主神はたまたま海に出ていたが、魚つりから帰ってきて国土の返上を承知した。ところが建御名方神は承知せず、建御雷男之神と伊邪佐の浜で力くらべを行った。これが相撲の始まりといわれている。その結果、建御名方神は敗れ、科野の国(長野県)の州羽(すわ)[諏訪]の海(湖)まで逃がれて帰順された。そこで大国主神はやむなく国土を返上したという。これがいわゆる国譲りである。
一方、建御名方神はこの地にきてから農業を興し、養蚕を教え、産業の振興に尽くされたため、国は大いに栄え土民の等しく尊崇するところとなった。
この地、すなわち今の諏訪湖のほとりであり、ここに諏訪大社がある。大社は全国一万八千余といわれる諏訪神社の総鎮守であり、当諏訪神社も鎌倉時代中期のころ分霊されたものと考えられる。したがって当社は産業の神として、また武神として遠い昔からそのご神徳を讃仰し尊崇されてきた。
通常、神社のご神体は神札、神木、または神鏡のところが多いものの、当神社はご神像である。「大和市史研究」第二号によれば、次のように説明されている。
木造男神立像 一躯 太刀を佩き、右手に扇状の持物をもって立つ。寄木造、玉眼嵌入、彩色。頭部・両手首いずれもさし込み。胴部の内刳にきわめて深い。造像時期を示す銘文写は残らないが、面部の表現には若宮八幡宮の応神天皇座像に通い合うような彫技が感じられる。十八世紀前半頃の造立と考えて大過ないのではなかろうか。(中略)市内の神像彫刻を考える上で貴重な像といえよう。像高54.4cm(大和市重要文化財)
社殿 当社の現社殿は拝殿、幣殿、覆殿からなる。江戸時代たびたび災禍等にあい、そのつど再建された。また、安政5年11月6日、落成間近の社殿は、大工の失火により悉く焼失、明治維新となるや、氏子の総力をあげて欅材等寄進が行われ、三ヵ年の歳月を経て明治5年、立派に再建された。当時は拝殿と覆殿は別棟であった。
一、拝殿 現在の建物は明治5年に再建されたもので、当時は茅葺屋根、総欅であった。拝殿の各所には見事な彫刻が刻まれているが、特に廻廊の両側にある中国の昔、漢の張良の物語、「子房覆(しぼうくつ)を捧ぐの図」の彫刻は貴重なものである。
その後いくたびか屋根替工事も行われ、また大正12年の大震災には大損害を被ったものの、直ちに補修が行われた。さらに昭和37年には屋根を鉄板葺に改修されたが、幾多の歳月を経て損傷をきたしたので、多くの氏子等の浄財により、一年にわたる工事で昭和58年、従来の形式のまま屋根を銅板葺とした。このおりその他の個所の補修と、覆殿、幣殿の再建も同時に完成し、同年5月、遷座式を斎行したものである。
二、幣殿 この建物は祭祀を行うところである。関東大震災の復旧工事が昭和3年に行われた時、拝殿と覆殿の空間に新築されたものであったが、昭和58年の大改修工事の際、さらに祭具室、神饌所と共に新築された。
三、覆殿 通称、本殿と呼ばれているが、正しくは覆殿という。明治五年に拝殿とともに再建されたとき、茅葺の寄棟式建物であったが、昭和37年に鉄板葺に葺き替えられた。しかし、長い歳月で建物の損傷が大きかったので、昭和58年、神明造り銅板葺として新築完成した。
拝殿23.1u(7坪)構造 銅板葺、千鳥破風入母屋造り 
向拝 9.9u(3坪)軒唐破風造り 
幣殿 16.5u(5坪) 
祭具室 3.3u(1坪) 
神饌所 3.3u(1坪) 
覆殿 16.5u(5坪)銅板葺、神明造り 
四、本殿 本殿は一般に中宮または奥の殿といわれている。一間社、千鳥破風、軒唐破風付の屋根形態や組物の多用、建物全体に施された彫刻など装飾性が強く窺え、建築様式の観点からみて、幕末から明治初期の建築と考えられる。
身舎(もや)は正面約1m、側面約90cmで、身舎の前面に向拝があり、側方からみると屋根は前方に葺下した方が後方より長くなっている。このような本殿形式は流造と呼ぶ。当本殿の場合、身舎正面の柱が一つであり、一間社流造と呼ばれる。屋根は板葺、箱棟になり、正面に向けて千鳥破風が、また向拝正面に軒唐破風が取付けられている。また、垂木は二重、繁垂木である。
身舎の周囲は組高欄付の縁が廻り、肘木・斗(ます)を四段に組み、向拝には身舎に登る六段の階段があり、その周囲に浜縁が取付いている。小規模な建物にもかかわらず複雑な組物手法をとり、かつ多用していることは当本殿の大きな特徴の一つである。
もう一つの特徴は、本殿全体が彫刻に覆われていることである。身舎の周囲壁面や脇障子には、中国の故事を題材にした肉厚の彫刻が嵌込まれているほか、全体を通して上部には雲や飛鳥など天空を配し、中間部には人物、草花を、下部には波、水、水鳥、魚など池水に関する題材が見られる。また、向拝の廻りには竜や獅子の彫刻が施されている。神社建築において、建物全体がこのように彫刻で埋め尽くされる傾向は江戸時代中期から見られ、当本殿のように彫刻に彩色を行わず木目(欅)の美しさをそのまま表わす表現手法は幕末期になってからと考えられる。
以上、当本殿は小規模な建物であるが、屋根形態、構造形式、彫刻の多用など幕末期建築様式を多く留め、市域においてもこのような建物はいまだ知られておらず貴重な建物である(大和市の近世社寺調査報告参照。)
境内末社 
稲荷神社 御祭神 宇迦之御魂神、例祭 初午の日 
当神社の創建は定かでないが、『新編相模風土記稿』に「末社・天王稲荷合社」とあり、すでにそれ以前に鎮座されたことは明らかである。諏訪神社の参道右手のやや奥まったところに小さな祠があったが、昭和62年、昭和天皇御在位六十年を記念し、八坂神社、秋葉・古峯合社とともに再建された。
八坂神社 御祭神 須佐之男命、例祭 7月14日 
天王様または牛頭天王様と称し、無病息災の神として崇敬され、明治13年、神輿一基を調製したと記録に残っているが現存しない。第二次大戦の直前まで7月14日を祭日とし子供達に菓子等を配り祝った。いまは神社役員によって厳粛な祭典を行い、地域住民の平和と繁栄を祈願している。
秋葉・古峯合社 
秋葉社は火之迦具土神、古峯社は日本武尊を御祭神とし、ともに火防神として尊崇されている。
秋葉神社は静岡県秋葉山にあって火祭りが有名であり、古峯神社は、栃木県鹿沼市の古峯原に鎮座しておられる。
今でも秋葉講、古峯講があり、地域の代表によって代参し、地域の安泰を祈念し、御神札を当社に納める習しがある。
境外末社 
日枝神社(山王大権現) 所在地 大和市下鶴間2966番地、御祭神 大山咋神・国常立神・伊奘冉神を合祀。
伊勢社(和光神明宮) 所在地 大和市下鶴間2871番地、御祭神 大日ルメ尊(天照大神)、例祭は二社ともに11月20日。
元宮・石楯尾神社の伝説 諏訪神社はその昔、石楯尾神社であったとも伝えられる。『新編相模風土記稿』に「諏訪社、村の鎮守なり、式内石楯尾神社なりと伝う…」とある。
式内(延喜式内)石楯尾神社といえば、延喜7年(907年)の神名帳に、「高座小五座のうち石楯尾神社あり、天安元年(八五七年)五月、石楯尾神、官社に列せし」とでてくる。つまり今より1130年前、文徳天皇のときの「文徳実録」に「天安元年5月丙辰、近来霖雨不霽、今日京中水溢、是日相模国従五位下石楯尾神預官社…」「下鶴間村、大島村、諏訪社をも石楯尾神社と伝う」とある。ここにいう相模国高座小五座とは、座間入谷村、佐野川村、名倉村、下鶴間村、大島村のことで、ここに石楯尾神社が祀られたという。石楯尾神とは御名を狭野尊、またの名を日本磐彦尊と称し、贈名は神武天皇である。神武天皇が日向を出て東征し大和に入られるとき、天磐楯をもってきた。第12代景行天皇の皇子日本武尊が九州の熊襲を征伐のあと、東夷征定を命ぜられたとき、景行天皇は「この楯を護りとして東国を鎮護せよ」といわれ渡された。これを鎮楯または石楯という。
東国に向う日本武尊は、途中伊勢神宮を参拝し、ここで草薙剣を賜った。そして途みち賊を征定し足柄峠をこえ相模に入られ、秦野、伊勢原あたりから厚木小野に至った。ここで賊にあざむかれ野火の災禍にあうが、この剣で抜い難をのがれた(一説には静岡県焼津あたりともいわれる)。さらに相模川を北にのぼり、佐野川村から大島、座間を経て下鶴間村に至り、横須賀(走水)から安房に入られた。妃弟橘姫入水の悲話はこのときの物語である。この征路の途中で御楯を安置し鎮護を祈願されたところが石楯尾神社であるといわれている。
諏訪神社の東方約150mのところに宮田塚と呼ばれる小さな石の祠があった。これが元宮といわれるが、全農大和集配センター開発のおり、昭和47年、現在地に移転、祭祀している。
神社の沿革 当社創立の年代は不詳であるが、古来より式内石楯尾神社なりと伝えられ、新編相模風土記稿によれば文徳天皇天安元年(857年)5月、祭祀のことが記され、醍醐天皇延喜七年(907年)の神名帳には高座小五座のうち下鶴間村に石楯尾神社ありと記されている。鎌倉中期のころ諏訪社として祀られたものと考えられ、延宝8年(1680年)再建の棟札のあったということからも、徳川氏入国当時既に厳然と鎮座していたのは明かである。
なお元禄6年(1693年)6月、領主江原氏代官伊沢喜兵衛、同都筑氏代官瀬沼伝右衛門本地を寄進し御神体として本殿に奉安せりという。宝永8年(1710年)6月再建、安永7年(1778年)再建の棟札は現存している。さらに安政5年(1858年)11月6日、完成間近の社殿を大工の失火により悉く焼失してしまった。その後、明治2年、神仏分離令により観音寺持より村持となり、氏子の熱意により明治5年、社殿を再建遷宮の祭典を盛大に斎行した。明治30年、秋季大演習の際、伏見宮貞愛親王殿下が御参拝された。 大正12年、関東大震災により大被害を受けたが昭和4年、復旧工事が完了する。さらに昭和9年9月17日、朝香宮鳩彦王殿下が演習統監のため当地御通過の砌り鄭重に御参拝された。昭和15年、村社に昇格、大東亜戦争勃発するに及び社名を諏訪神社と変更、社運益々隆昌となったが、終戦を迎え昭和21年、政教分離令により宗教法人諏訪神社となる。氏子崇敬者の尊崇はいよいよ篤く永年に亘る神社整備計画に基き昭和52年、社務所を再建。更に昭和57年、覆殿、幣殿、神饌所、祭具所、玉垣等を再建し、拝殿、向拝を共に銅板葺に改修、荘厳な社殿を完成し、翌年5月、盛大に遷座奉祝祭を斎行した。
昭和62年、昭和天皇御在位六十年を記念し境内末社稲荷神社、八坂神社、秋葉・古峯合社の三社殿と併せその玉垣を整備する等盛事を行う。
惟うに当諏訪神社の隆昌は、地域の繁栄であり、氏子崇敬者こぞってその御神徳に感銘し地域とともに神事などますます盛大となっている。
諏訪神社 祭事 1月 元旦祭・どんど焼き(14日)、2月 節分祭・初午祭、4月 (花見のつどい)、7月 八坂神社(天王様)祭典(14日)、8月 奉納相撲大会(第一日曜日)、(盆おどり・婦人会主催)、9月 例大祭(6日)、11月 日枝・伊勢両神社祭典(20日)、七五三祈祷、随時 宮詣、厄除、家内安全、交通安全、地鎮祭など諸願御祈祷

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




市指定重要文化財

昭和47年2月25日指定(非公開)
形状 立像 高さ54.4cm
年代 18世紀前半頃
木像の男神立像で、太刀を腰にさし、右手に扇状の持ち物を持っています。製作方法は寄せ木造りで、目は玉眼嵌入、頭部と両手先は差し込みで、全体に彩色が施されています。胴部の内側はきわめて深く造られています。
製作年代を印したものはありませんが、面部の作風からは下福田の若宮八幡宮の応神天皇座像(1746造)に通いあうものがあり、18世紀前半頃の像と推定されます。
また、由緒書にによれば、元禄6年(1693)6月に領主江原氏代官石沢喜兵衛・領主都筑氏代官瀬沼殿右衛門が神像を寄進し、後神体として本殿に安置したと伝えられていますので、この頃の像であろうと推定されます。
なお、下鶴間村は3人の領主により支配されていましたが、もう一人は松平氏であり、共に将軍の直属家臣団であり、お目見得できる旗本でした。

社頭掲示板



諏訪神社

鎮座地  相模国 大和市下鶴間2540番地
御祭神  建御名方神 (たけみなかたのかみ)
 当諏訪神社の創立の年代は不詳であるが、古来より式内石楯尾神社なりと伝えられ、新編相模風土記によれば文徳天皇天安元年(857年)5月祭祀のことが記載され、醍醐天皇延喜7年(907年)の神名帳には、高座小五座のうち下鶴間村に石楯尾神社ありと記されている。
鎌倉時代中期のころ諏訪社として祀られたものと考えられ、延宝8年(1860年)再建の棟札があったと云うことからも、徳川氏入国当時既に厳然と鎮座していたのは明らかである。
 宝永8年(1710年)6月再建、安永7年(1778年)再建の棟札は現存している。
 さらに安政5年(1858年)11月6日完成間近の社殿を大工の失火より悉く焼失してしまった。その後、氏子の熱意により明治5年7月に三ヵ年の歳月と、多大な資材、労力をかけて完成した社殿と伝えられているが、近隣の神社中でも比類のないものと云われている立派な彫刻にその年月の大半がかけられたものと思われる。

公式HP



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