石楯尾神社
いわたておのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】石楯尾神社 相模国 高座郡鎮座

   【現社名】石楯尾神社
   【住所】神奈川県相模原市緑区名倉4524
       北緯35度36分50秒,東経139度7分54秒
   【祭神】石楯尾大神
       (配祀)事代主神 日本武尊 護良親王 木花開耶姫命 保食神 天村雲命
       中筒男命 天児屋根命 火産靈神 埴山姫命 水波能売神 菊理姫命

   【例祭】8月26日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創建年代は不詳
       天安元年5月従五位下
       寿永元年(1182)藤原広信再興
       文亀3年造営勅使参向
       永禄12年(1569)10月8日武田信玄社殿宝物焼失
       明治6年郷社
       大正12年2月5日神饌幣帛料供進指定神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】本来は石「エボシ岩」を祀る
   【祭祀】江戸時代は「名倉権現」「藏王権現」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       幣殿・拝殿・随神門・参拝者休憩所・神樂殿

   【境内社】祖霊社・浅間神社・疱瘡神社・御嶽神社
        日月両宮・蔵祖神社・天満天神・春日神社


桂川南岸に鎮座する。
式内社調査報告は地形的には当社が式社の可能性が高いとしている。
創建当初はいまの場所より僅かに西方の、甲斐国との国境により近い位置に鎮座していたと伝えられる。
旧来相模川の対岸にあった「エボシ岩」が礼拝対象であった。この岩と伝わるものが明治に入るまで当社の東方近辺にあったが、中央本線の鉄道建設工事の折に撤去されてしまった。


由緒

生命の親神 總産土神 藤野町名倉鎮座
石楯尾神社
御祭神 石楯尾大神 (石楯尾神社に鎮まる神様)、産土神、伊邪那基幹神、天御中主神 (高皇産霊神 神皇産霊神)、天常立神、国常立神、天照座皇大神、大歳神、猿田彦神、菊理姫神 (幽産土神=速玉男神 事解男神) 、事代主神、日本武尊、守良親王 (亀山天皇の皇子) 、その外多くの神々
由緒 大事な事
一、神籬磐境 二、エボシ岩 三、国史所載社 (文徳実録) 四、延喜式内社 五、総社 六、明治6年よりの郷社 七、昭和43年より神奈川県神社庁献幣使参向神社
この世のはじめ、天地創造の折に、神々が国の鎮めとなさっておくだりになった、天然の神籬磐境の「エボシ岩」を人々が尊んで、拝み仕えまつった祭政一致の生活の行なはれた所が京塚山の頂上にあった。ここが富士神界( 肉体ある人の世より前の霊体の神神の世)の中心地・高御座であった。 (相模の国の奥津宮=総産土神) このエボシ岩の脚部の岩盤が西にのびて地上に現れ出た所が石楯であり、ここが産土路にあたり (石楯が粘板岩でここが変成粘板岩) 古代人が神を斎きまつった所・斎庭として人々の崇敬の中心となり、崇神天皇より古くから総産土神としてお社が設けられた様であり、高位の神々様が数多くお鎮り遊ばされて居り、応神天皇の御幸所で御造営があったとも伝えられ、文徳天皇天安元年5月、丙辰・従五位下の神とし官社に預った事が文徳実録にある国史所載社で、醍醐天皇の御代延喜の制では式内小社に列した延喜式内社で、安徳天皇寿永元年には藤原左府広信が勅宣を蒙って再興し、大将軍源頼朝が祈願所として七つの大鳥居を建て、御黒印七十五石余を寄進し、後柏原天皇文龜3年には関白殿下十六世後いん監物大夫陽近が勅使として、本殿並に拝殿、幣殿、玉籬、二天堂二王門、随神門七十五ヶ所、表僧坊十六院末社七ヶ所を造り終えたと伝えられている。
奥三保18ヶ村川入郷7ヶ村都合25ヶ村の総社( 山梨県に多くの氏子) として崇敬されてたが、三増合戦の禍を受け、東山天皇永録12年10月18日、武田信玄のため社殿全部が烏有に帰して、古記録まで焼失してしまった事はまことに惜しい事であった。後に再建されたが享保6年2月、祝融に災され、現在の社殿は、中御門天皇享保9年に建築されたもので、光格天皇文化5年6年には神祗管領卜部朝臣より幣はくが献上してあり、明治6年、社格制定に際し郷社に列し、明治44年11月17日に末社が合併されたが、実態は境内移転だったので現在も境内神社として残ってる。
大正12年2月5日、神奈川県告示第26号により、神饌幣帛料供進指定神社に指定され、第一回の例祭が関東大地震の9月1日であった。天安元年5月に官社に預った日も地震の日であった事を考えると、何か天地の自然現象を司り給う大歳神の御鎮座と不思議な関連がある様に思はれてならない。
昭和20年12月15日、神道指令により社格廃止となり、昭和20年12月28日、宗教法人令による神社宗教となり、神社本庁に所属し、昭和27年12月22日宗教法人法の神社として登録を完了した。
昭和23年1月24日、神奈川県神社献幣使参向神社に指定された。
これらの事を証明する様に、古代人の住居跡や、縄文時代草創期の一万年前のれき器( 石器) ・縄文土器・弥生土器も出土して居り、甲相( 山梨県と神奈川県) 開発の文化の中心地としての総産土神の御加護の証明もあり、往古より河内・野崎・倉田・和智・宮野・中村・鈴木・浜名・山崎・森久保等の諸氏が広い地域に居住して、ずっと栄えて来た様である。各氏の居住地には必ず小氏神をまつり、敬神崇祖により世の平安を祈りつづけた様である。
例祭日 8月26六日
特殊祭 霊開きの祭 (毎月満月の日)
建造物 本殿 神明造 銅板葺 面積 4.42u
幣殿 木造 銅板葺 面積 17.8u 
拝殿 木造 銅板葺 面積 20.7u 
随神門 木造 銅板葺 面積 18.03u 
祖霊社 木造 亜鉛板葺 面積 49.3u 
休憩所 木造 亜鉛葺 面積 79.3u
手水舎 木造 銅板葺 面積 3.3u 
鳥居 石造 黒木型 間口 1.83u 高さ 3.8m
おみこし 木造 寄棟 間口 0.45m 全高 1.3m 明治元年5月 愛甲郡半原の住矢内但馬守藤原高光の作
境内神社 八幡神社 蔵祖神社 春日神社 天満天神 日月両宮 稲荷神社 浅間神社御嶽神社 住吉神社 榛名神社 疱瘡神社 大国様
宝物 相模国高座郡津久井県名倉村 石楯尾神社 蔵王大権現に、神祗管領卜部朝臣良連より文化5年2月23日・文化6年4月15日に献上したもの弐箇

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




石楯尾神社

この御社は人の生命の元水穂の気が地球の中心から出る土産地である神離磐境の土地として神様がお定めになったところへ総土産神社として今から2000年以上前に(崇神天皇より前)建てられたお社であります。文徳天皇の天安元年5月には従5位下の神として官社に預かったことが文徳実録にあります。
醍醐天皇の延喜の制では式内小社に列し、寿永元年文亀3年の両度には勅宣により御造営があり、源頼朝の祈願所として7つの大鳥居が建てられて15石余を寄進されました。
この地域の人々の生命を佐づける神様であったので奥三保18ヶ村(津久井郡)河入郷7ヶ村(愛甲郡)都合25ヶ村の総社として近郷からの参拝で盛大な祭が行われ明治の頃まで続きました。
永禄13年武田信玄が三増役の帰途火の矢を射て社殿を悉く焼失し(この御神体を相模川下流で御まつりした社として与瀬神社、大島の諏訪神社の伝説も残ってます。)現在の拝殿は享保9年の建立にして、文化5年文化6年には神祇官から幣帛もあげられてあり、明治6年郷社に列し今は神奈川県神社庁献幣使参向神社に指定されております。
御祭神 石楯尾大神

社頭掲示板



石楯尾神社

天然の神磐境であるエボシ岩関係の神様の必要あって御くだりになった所の産土地に建てられた産土の神社であるので、総産土神と申しあげ、高位の神々様が数多くお鎮まり遊ばされて居り、創立は今より二千年以上前の、崇神天皇より前のようであり、応神天皇が御臨幸遊ばされたとの記録もある。
今から1120年前の文徳実録に、天安元年5月丙辰、従五位下石楯尾神官社に預るとあり、相模国只一社の官社である。
今から1080年前の醍醐天皇の御代編纂の延喜式の神名帳に相模十三社の一の延喜式内社と記録されている。
源頼朝が祈願所として御墨印七十五石余を寄進、七つの大鳥居を建てたと、今神社の近い所に鳥居原の地名が残っている。
後柏原天皇文亀3年(475年前)二条関白殿下十六世後胤監物大夫陽近が勅使として参向、本殿等七十五ヶ所の御造営をした。
奥三保十八ヶ村・川入郷七ヶ村都合二十五ヶ村総社として崇敬されたが、三増合戦の禍を受け、東山天皇永禄12年(412年前)10月18日、武田信玄の為、社殿悉く烏有に帰し、古記録まで焼失した事は惜しい事であった。後に再建されたが、享保2年祝融の災にあい、現在の社殿は、中御門天皇享保9年(253年前)に建築されたもので、光格天皇文化5年(172年前)文化6年には神祇官より幣帛が献上された今に残り、明治6年社格制定に際しては、津久井郡内只一社の郷社に列した。明治44年末社が合併され、大正12年2月5日神奈川県告示第二十六号により、幣帛指定神社に指定され、昭和43年1月24日神奈川県神社庁献幣使参向神社に供進された。

社頭掲示板



石楯尾神社

自然の神籬磐境(神のしずまる所)であるエボシ岩の西端が桂川に面して楯の様に切り立った岩として屹立していた。之が石楯であって、石楯の岡(昔は岡の事を尾と云う)の上の斎庭に鎮まる甲・武二州を中心とした富士神界の気を受けた守り神、総産土神石楯尾神社としての開発の守り神であったので、応神天皇の御臨幸とあったと伝えられて居り、文徳実録に文徳天皇天安元年(857)5月丙辰従五位下の神として官社に預ったと記されてあり、延喜の制(901)では式内小社に列して居り、安徳天皇の御宇寿永元年(1182)には藤原左府広信が勅宣を蒙って再興したと云われる。源頼朝も祈願所として御墨印七十五石余を寄進して七つの大鳥居を建てたと伝えられ、後柏原天皇文亀3年(1503)に二条関白殿下一六世後胤監物大夫陽近が勅使として、本殿はじめ拝殿・幣殿玉籬・二天門・随神門七十五ヶ所、末社七ヶ所、表僧坊十六院を造り終えられたとの記録も残っている。奥三保十八ヶ村川入郷七ヶ村都合二十五ヶ村の惣社として崇敬されたが、三増合戦の禍を受け、永禄12年(1569)10月8日に武田信玄のため社殿全部が烏有となって古記録まで焼失してしまった。後に再建されたが、享保6年(1721)2月祝融の災にあい、現在の拝殿は中御門天皇享保9年(1724)に建築された。光格天皇文化5年(1808)文化6年には神祇官領卜部朝臣良連より幣帛が献上されて居り、明治6年の社格制定の時には郷社に列した。明治44年11月に末社が合併され、大正12年2月神奈川県告示第二十六号によって神饌幣帛料供進神社として指定され、昭和43年1月24日神奈川県神社庁献幣使の参向する神社に指定された。これらの事を証明する様に、古代人の住居跡や、縄文時代草創期の一万年前の礫石が出土したり、甲相開発の文化の中心地として総産土神の御加護により往古より居住したと云う。河内・野崎・和賀・宮野・中村・鈴木・山崎・森久保の諸氏が広い地域に居住して、各氏の居住地には必ず小氏神を戴いて居る。

神奈川県神社誌



石楯尾神社

総産土神 延喜式内 石楯尾神社(通称名倉の権現様)
*御祭神 石楯尾大神(石楯尾神社にお鎮まりになってる神様》
*由緒 
天然の神籬磐境であるエボシ岩関係の神様の泌要あって御くだりになった所の産土地に建てられた産土の神社であるので、総産土神と申しあげ、高位の神々様が数多くお鎮まり遊ばされて居り、創立は今より二千年以上前の、崇神天皇より前のようであり、応神天皇が御臨幸遊ばされたとの記録もある。
今から1120年前の文徳実録に、天安元年5月丙辰、従五位下石楯尾神官社に預るとあり、相模国只一社の官社てある。
今から1080年前の醍醐天皇の御代編纂の延喜式の神名帳に相模十三社の一の延喜式内社とされている。
源頼朝が祈願所として御墨印七十五石余を寄進、七つの大鳥居を建てたと、今神社の近い所に鳥居原の地名が残っている。
後柏原天皇文亀3年(475年前)二条関白殿下十六世後胤監物大夫陽近が勅使として参向、本殿等七十五ヶ所の御造営をした。
奥三保十八ヶ村・川入郷七ヶ村都合二十五ヶ村総社として崇敬されたが、三増合戦の禍を受け、東山天皇永禄12年(412年前)10月18日、武田信玄の為、社殿悉く烏有に帰し、古記録まで焼失した事は惜しい事であった、後に再建されたが、享保2年祝融の災にあい、現在の社殿は、中御門天皇享保9年(253年前)に建築されたもので、光格天皇文化5年(172年前)支化6年には神祇官よリ幣帛が献上されて今に残り、明治6年社格制定に際しては、津久井郡内只一社の郷社に列した。明治44年末社が合併され、大正12年2月5日神奈川県告示第二十六号により、幣帛指定神社に指定され、昭和43年1月24日神奈川県神社庁献幣使参向神杜に供進された。
昭和62年8月26日
石楯尾神杜々務所
*由緒確定までの経過
私が神職になった大正11年の頃は、神社明細帳の由緒は「元亀元年焼失につさ不詳」となって居て、困った事だと思った。津久井郡内只一社の郷社であるので、国では資料があると思い、神社昇格験・明細帳訂正願など文献を調査して七回出し二十ヶ年の歳月を要して、昭和17年1月26日、神社明細帳の訂正が許可され、延喜式内社である事を国家が承認した。
昭和20年終戦により、世が混乱し、自由の世となり異説が出て来た、之を正すために、御祭神の御導きによる実態の御示し、正論の説明が過去の文書として発見され、乏により、名倉の石楯尾神社が延喜式内社である事が実証された。これまで六十五年の歳月を要した。尊い石楯尾大神の御導さの賜であるので付記する。
宮司 濱野寿雄 記

社頭掲示板



二本杉と社叢

神奈川県指定天然記念物
石楯尾神社(名倉)の二本杉と社叢
昭和47年2月25日指定
式内社に列した石楯尾神社がある桂川に沿った山腹斜面や土壌の浅い岩状立地には、高木層にケヤキ、低木層にアラカシ、草本層にコカンスゲなどをともなっている。社叢内のウラジ口ガシ林は群落としては幅がせまいが、林床は安定しており、かつてこの地方を広く被っていた自然林のおもかげを残している。このウラジ口ガシ林の斜面下部はイ口ハモミジ、ケヤキ林が生育している。社殿東手の凸状の台地上はアラカシと混生するシラカシ林が認められる。以上三つの植物群落の周囲には、北斜面にコナラの二次林が優占しており、台地上や庇端にはアカマツやスギの高木が存在する。境内の中央に御神木とされる夫婦杉が枝葉よく伸び姿整う典型的な二本杉となっている。
この二本杉を含む社叢を郷土景観的にも、学術的にも重要なものとして天然記念物に指定する。
*注意*
この天然記念物の現状をみだりに変更し、減失・き損・衰亡等保存に影響を及ぼす行為をしたものは処罰されますから御注意下さい。
昭和61年3月25日
神奈川県教育委員会

社頭掲示板



郷社 石楯尾神社

祭神 日本武尊 創立年代詳ならずと雖、文徳実録に「天安元年5月丙辰、在相摸國從五位下石楯尾神預官社」と見え、延喜の制式内小社に列せられたれば、其古社たること知るべし、当國十三社の一にして、小田原北條氏の当村役場帳に三貫丈社領と見えたり、蓋当社の社領なるべし、後柏原天皇文亀元年焼失し同3年再建せしが、幾くもなく永禄12年、武田信玄の為め社殿悉く鳥有に帰せり、元名倉権現と称し、当國奥三保十八箇村、并河入郷七ケ村の惣社なりしが、今は当村二ケ村の鎮守たり、御神体は、銅鋳立像、長一尺一寸、と新編相模風土記に見えたり、明治6年、社格制定に際し、郷社に列せらる、社殿一字、境内地は673坪にして、石段を登る五十八級、杉松鬱蒼として、西は甲相の國界、北は相模川に接し、景趣幽邃の境なり。
式の所謂石楯尾神社所在に就き、特選神名牒に説あり
『今按、注進状ニ國人云、エピナゴウチト唱フル所ノ田中ニ穴アリ、穴ニ丸石アリ、毎年5月5日ノ祭ニ之ヲ神輿ニ移シ諸村ヲ廻ル、是石楯尾神社ナルベシ、又天保度地誌調ニ、高座郡座間入谷村伊参神社卜云説アレド、里俗ハ此社ニアラズト云、又同村諏訪神社トモ、同郡勝坂村羽里社大島村諏訪神社トモ云ヘド、証アリトモ思ハレズ、一説ニ津久井郡名倉村三嶽権現アリ、旧社地ハ村ノ西北隅ニテ、西ハ甲斐都留郡ニ界シ、北ハ桂川ニ瀕シ、西北トモ厳石屹立シテ恰モ楯ノ如ク、其形象山ニ非ズ、岡ナリ、仍テ考フルニ石楯尾ノ尾ハ岡ノ義ナラント云リ、又同郡佐野川村大石明神是ナリトモ云リ、此二社上ノ数社ニ比スレバ石楯尾ノ名ニ由縁アレド、二村トモニ愛甲郡ニ属セシ由ナレバ、郡境今詳ナラズ。姑附記シテ後考ニ備フ。

明治神社誌料



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