小野神社
おのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】小野神社 相模国 愛甲郡鎮座
          (旧地)秋葉神社

   【現社名】小野神社
   【住所】神奈川県厚木市小野 772
       北緯35度25分56秒,東経139度19分8秒
   【祭神】日本武命
        『相中留恩記略』『神社覈録』下春命

   【例祭】 4月21日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】霊亀2年(716)行基が藥師如來の像を奉安
       建久5年(1194)8月、社殿が再興
       天正19年(1591)徳川家康社領安堵
       慶長2年(1597)12月造営
       元和5年(1619)6月造営
       慶安2年(1649)12月21日造営
       元禄5年(1692)6月造営
       嘉永元年(1848)12月12日造営
       明治6年7月30日郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】旧社地は背後にある神の山
        嘉永初年頃(あるいは文政の終)現地に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「閑香大明神」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・神樂殿

   【境内社】八坂・春日・淡島・阿羅波婆枳・日枝・古登比羅・稲荷
   【別当】別当大鏡院は明治初年に廃寺となつた

玉川中学北西に鎮座する。
小野神社の小野は地名を意味し、祭神は知々夫国造の祖、天下春命を祀つたと考えられる。
古事記に、「さねさし相摸の小野に燃ゆる火の火中に立ちて、問ひし君はも」とある「相摸の小野」は当地のことだと伝える。
中世「閑香大明神」と称していた。「カンカ」とも読まれるが本来は「アヰコウ」と訓み、 愛甲郡の明神の意味であろう。
日本武尊が祭神となるのは閑香大明神から小野神社へと社号を改めた明治の初年頃と考えられる。
もと南西400mの「神(上とも)の山」に鎮座していたといい、現在頂上に秋葉神社の小祠を祀つている。
嘉永初年頃(あるいは文政の終)に現在地に遷座。


由緒

この神社は創立年代は不明であるが、延喜式によれば、寒川阿夫利神社とともに相模十三座の中に数えられ、また小社に指定されているところから、非常に古社であると同時に社格の高いことがうかがわれる。記録によれば鎌倉時代に入って愛甲村に館を構え弓を執っては当代随一と称された愛甲三郎は、当社を心から崇敬した。この社の古い納札によると当社は建久5年8月12日、再興され、その時の願主として鎌倉幕府政所長官大江膳大夫廣元、並びに愛甲三郎季隆の名が挙げられている。その後鎮座地の移転があり、また近世に到り閑香大明神と称された時代もあったが、社殿はその後五回工を改めているが、明治6年7月30日、郷社に指定され、愛甲郡総鎮守として広く崇敬された。祭典に当たっては、県からの奉幣使各村代表の参列もあり厳粛盛大なものであった。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




小野神社

祭神 日本武尊 下春命
由緒 鎮座の地は古く小野の里と称し、倭名抄所載愛甲郡の一つ玉川郷に属し其の中心地であった。社伝によると元正天皇の霊亀2年(716)僧行基が薬師如来の像を刻み奉安したという。愛甲郡の総社として崇敬篤く、建久5年(1194)領主大江広元、愛甲三郎季隆等が社殿を再興。また天正19年(1591)徳川家康は社領二石五斗を安堵し、当郡の総鎮守とした。現在社額に「閑香大明神」とあるように永く小野の「閑香さま」と呼ばれていた。
例祭 4月21日
交通小田急線本厚木駅下車神奈中バス「森の里」行「小野宮前」下車3分

参拝のしおり



小野神社

社標の再建にあたり旧社標の一部をここに移設して先人達のご努力に感謝してこの碑を建立いたします
社標文字
表面記 当国十三社式内
    小野神社
裏面記 嘉永第二年歳集巳酉夏四月吉祥良
    総産子中 別当光玉山大鏡院 発起吉澤直右衛門
古き世の人に敬意を表して後世の為に伝えます

社頭石碑



小野神社

この神社は、延長5年(927)の「延喜式」巻九に「相模国式内社の内愛甲郡一座小野神社」と書かれています。
現在の拝殿は、嘉永元年(1848)に建てられ、わら葺屋根でありましたが、昭和43年に鉄板葺に替えられました。本殿は拝殿よりも1mほど高い地面に神明造りで造られています。「新編相模国風土記稿」に「閑香明神社、村の鎮守なり。延喜式に載りし小野神社、当国十三社の一にて祭神下春命という」とあります。
明治時代になってから、この神社の祭神には日本武尊も加えられました。それは日本武尊が東国の賊の征伐に向かった際、野火の焼きうちの苦難にあうという「古事記」の記述の地が「小野」と関係するとして祭神に加えたもののようです。
この神社は、建久5年(1194)愛甲三郎によって再興されたとも言われています。愛甲氏の本家の横山氏は、小野妹子の子孫と伝えられ、愛甲氏の家系の信仰は厚く、特に江戸時代には、愛甲姓の武将の参詣が記録されています。
平成12年2月吉日
厚木らしさの創造推進事業玉川地区協議会

社頭石碑



小野神社

小野村について「新編相模国風土記稿』は、『古事記』記載の日本武尊が、相武国で国造の焼討ちに遭った「佐賀牟能遠怒」(サガムノオヌ)という所を小野村の遺称かと記し、また、村の鎮守「閑香(かんか)明神社」を、『延喜式』(えんぎしき)記載の相模国十三社の一社「小野神社」とし、祭神は下春命(したはるのみこと)としている(現在は日本武尊命)。別当は本山修験の光玉山大鏡院(明治初年廃寺)であった。阿羅婆娑枳(あらはばき)と春日の二社を相殿とし、末社は第六天・稲荷・淡島・金毘羅・山王の五社を祀る。

社頭掲示板



小野神社

小野は乎乃と訓べし○祭神天下春命、(地名記)小野村に在す、(同上)例祭月日、
類社
山城国愛宕郡小野神社の條見合すべし、

神社覈録



郷社 小野神社

祭神 日本武尊
当社元一に閑香明神ど称す、創立年代詳ならず、延喜の制式内小社に列せられ当国十三座の一なり、社領は天正19年徳川家康先規に依り朱印二石五斗を寄せ、社殿は慶安2年12月21日再建、元禄5年6月再建、明治9年4月19日本殿を再建す、往昔愛甲郡一郡の総鎮守にして、一郡の帰依する所たり、殊に小野姓愛早三郎季隆、崇敬厚く、子孫亦崇奉怠らず、今其の参拝の月日を記せる木札二枚存す、文に云く、
延享3丙子年4月15日当社参詣 松平薩摩守家中小野姓愛甲氏源助
寛延2年3月23日当社参詣 松平薩摩守家中愛甲源左衛門小野季平
明治6年7月30日、郷社に列せらる、建物は本殿、幣段、拝殿及元説教所等にして、境内地は968坪(官有地第一種)あり。

明治神社誌料



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